『孔丘 上』(宮城谷 昌光)
『孔丘 上』(宮城谷 昌光)
『孔丘 下』(宮城谷 昌光)
『孔丘 下』(宮城谷 昌光)

《もし、どなたか、孔子の伝記を材料にして小説でも書かれるような時、いままでのように六十になって、七十になって、ますます徳が盛んになったという超人間では、小説になるまいと思います。(略)孔子には先覚者に免れえない孤独感があった。そこを摑まなければ、孔子は生きてこないと思います》(「論語の新しい読み方」一九六九年)――東洋史学の泰斗・宮崎市定が書き遺した言葉だ。以来半世紀余が過ぎ、ようやくこの期待に応える作品が出現した。本書『孔丘』である。著者は「あとがき」に《神格化された孔子を書こうとするから、書けなくなってしまうのであり、失言があり失敗もあった孔丘という人間を書くのであれば、なんとかなるのではないか》と記している。書名は孔子(尊称)でも仲尼(ちゅうじ)(あざな))でもない。通常避けられる孔丘(本名の呼び捨て)を用いたところに、素の孔子と向きあう著者の覚悟のほどが(うかが)える。

 孔丘(紀元前五五一年~紀元前四七九年)が生きた春秋時代末期は、大混乱の時代だった。周王朝の権威は地に落ち、(しん)(せい)、楚、秦などの大国が主導権争いを繰り返す。多くの国で、国王は名目のみの存在となり、大夫(たいふ)(上級貴族)が実権を握っている。母国魯では、国君(昭公)が大夫に追われ亡命七年のあげく客死した。が、大夫とて盤石ではない。「陽虎の乱」に描かれるように、大夫を支えるはずの士(下級貴族)が独裁政治をほしいままにしている。この下剋上の実態を知らずして、孔丘はとうてい理解できない。古代中国を描き続け、春秋戦国に通暁(つうぎょう)する著者は、簡にして要を得た筆致で時代背景を活写する。結果、孔丘がなぜ「礼」を説いたか、なぜそれが人々の心を揺さぶったか、なぜ孔丘は挫折し亡命せざるをえなかったか、時代の必然が生んだ孔丘の像が鮮やかに浮かび上がってくる。

 人間孔丘を描きだすことは、聖人孔子を描くよりずっとむずかしいだろう。何しろ人生の事跡そのものが不確定なのだ。出生ひとつとっても、専門家のあいだで、「農民の子」(加地伸行)「下級士族の子」(木村英一他)説が対立し、「父なし子として母の手で貧賤のうちに育てられた」(金谷治)、「母と別れ父方で過ごした」(加地伸行)と見解が違っている。最初の伝記である『史記 孔子世家』は「出色の出来栄え」(貝塚茂樹)という称賛と、「『史記』のうちでも最も杜撰(ずさん)なもの」(白川静)とする見方に分かれるし、いつどこで語られたかが定かでない『論語』の語録は、後世の潤色や創作も多い。孔子本人の言葉かどうか、その意味をどう解すべきか、諸説入り乱れ異なった解釈が無数にある。

2023.10.26(木)
文=平尾隆弘(評論家)