《「(あなたは)宝のような才能を持ちながら、(それを活用せず)国を混迷させている。それは仁といえますか」。(先生は)言われた。「いえませんな」。》《「政治にたずさわることを希望しながら、しばしば時機を失しておられる。それは知といえますか」。(先生は)言われた。「いえませんな」》と、陽虎と孔子とが問答をかわすかたちだ。井波訳(吉川幸次郎、貝塚茂樹、加地伸行の現代語訳も同様)のほうが通説のようで、この場合、陽虎が孔子に、「あなたは日頃しきりに『仁』を説いておられる。しかしあなた自身はどうなんですか」と問いかけ、孔子は一本取られたことになる。

 が、どちらの解釈を取るにせよ、陽虎と孔丘とのあいだで「仁」は「すでにあるもの」であって、お互いの了解事項とされてきた。それでは「仁」が生きてこない、作者はそう考えたのではないだろうか。「仁」を既成の概念から解き放ち、孔丘の肉声のように響かせることはできないか、と。本書の独創はここにきわまる。宮城谷氏は、「仁」を陽虎に語らせることで、これまで誰も想像しえなかった、孔丘の内面のドラマを描き出した。「仁」を小説化(・・・)し、「仁」に生命(いのち)を与えたのである。

 こうして、「仁」は聖人の抽象的な言葉から、人間孔丘のリアルな言葉に変貌する。たとえば「仁」の一面とされる有言実行、言行一致は、「(あやま)ち」に向かう孔丘の言行によって、きわめて具体的な様相をおびてくる。陽虎に「やられた」「またしても侮辱された」と自ら認めているように、孔丘は陽虎に対しぶざまな失態を演じ、やがて失態を挽回する。『論語』里仁篇「過ちを観て(ここ)に仁を知る」は、通常「他人の過ちを見ればその人の仁の程度がわかる」と解されている。しかし、本書の叙述をふまえれば、「過ち」を犯したのは孔丘自身であり、陽虎に「仁」を教えられたと読みかえることができる。そして、『論語』における「過ち」の語録は、すべて、孔丘の失態と内省と努力と実践に裏打ちされる。「過ちあれば、人必らずこれを知る」(述而篇)、「過てば(すなわ)ち改むるに(はばか)ること()かれ」(学而篇)、「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」(衛霊公篇)等々、孔丘の体験談を聞いている気分になる。

2023.10.26(木)
文=平尾隆弘(評論家)