孔丘には、一貫して変わらないものがあった。冒頭「盛り土」の章に書かれた《すべての人が師であった。どのような境遇にあろうとも、死ぬまで学びつづけるという心構えは、まさしく死ぬまでくずれなかった》という姿勢である。これに類した表現は、最終章に至るまで何度も何度も繰り返される。これこそが人間孔丘を凡人から隔てるものであって、本書を貫く軸はここにある。作者は孔丘に伴走しながら、「学びて(いと)わず、人を(おし)えて()まず」(『論語』述而篇)といった姿勢に出会い、そのつど、作家としてのわが身をかえりみたのかもしれない。

 孔丘の結婚生活を直視しているのも本書ならでは。孔丘は離別する妻に「あなたには、弱い者の悲しみが、わからないのです」と言われ、息子孔鯉(こうり)には「父は母をいたわりもせず、いびりだした」「女と子どもをいたわらない者が説く礼は、本物か」と不信を抱かれる。父母の愛にも妻との愛にも恵まれなかった孔丘は、家庭人としては失格者だった。著者は《妻の悲しみも、鯉の悲しみもわからぬはずがない孔丘の悲しみを、たれがわかってくれるのか》と記している。このとき孔丘三十歳、『論語』にいう而立(じりつ)の年だ。彼がせっかく得た官途の職を辞し、自らの教場(私塾)開設を決意した年に当たっている。従って、「三十にして立つ」は、ふつう「学問的に自立し」(桑原武夫)と解される。だが、光があれば影がある。《ひとつの大事がはじまろうとしているのに、いまひとつの大事が()わろうとしている》――学問的自立は、家庭生活への生涯にわたる訣別の告知でもあった。

 誰もが驚くのは「仁」をめぐる陽虎とのやり取りであろう。この挿話は『論語』陽貨篇(陽貨と陽虎は同一人物)冒頭にあるのだが、解釈は他の注釈書と天と地ほど違っている。

『論語』の書き下し文を見てみよう。岩波文庫版(金谷治訳注)の陽虎とのくだりは「()わく、()の宝を(いだ)きて其の(くに)を迷わす、(じん)()うべきか。曰わく、不可なり。事に従うを好みて亟〻(しばしば)時を失う、知と謂うべきか。曰わく、不可なり」である。本書では、この問答を以下のように描いている。

2023.10.26(木)
文=平尾隆弘(評論家)