《目の前を、親子三人が仲良く手を繫ぎ、楽しそうに歩いてゆく》
こんな表現に、わたしは以前から疑問を抱いていた。
もう少しきつい言葉で言えば、それは小説として「手抜き」ではないかとすら思っていた(もちろん、自分自身が書いたものも含めて)。
たとえば、どうして「親子」だとわかるのか。手を繫いで歩いていれば親子なのか。血の繫がらない赤の他人かもしれないではないか。
たとえば、一見「楽しそう」かもしれないが、その先に何が待っているのか。〝最後の儀式〟の前に〝最後の晩餐〟を食べに行くところではないのか。
疑い出せば、その三人に関する観察と想像だけで一章ぐらいは書けてしまいそうだ。
そんなことを考えていて、空想が広がった。
家族と思われていた人たちがまったくの他人だったら? テレビに《一家死亡》というニュースが流れても、実はその裏に想像もしないような人間関係があったら?
もうひとつ、今回意図したことがある。
わたしの小説の書き出しには自分でも意識している特徴があって、それこそ《目の前を、親子三人が仲良く手を繫ぎ、楽しそうに歩いてゆく》ような情景から始まることが多い。
ありがちな日常の風景を描きながら「でも、なんとなく不穏な空気があるよね」「このまま楽しく進むはずはないよね」という世界に、じわじわと招待するのが自分の特徴だと思っている。
しかし、たまには——そうたまには、冒頭からいきなりクライマックス的な事件が起き、しかもそれはぜんぜんクライマックスなどではなくて、序章にすぎなかった、という展開はどうだろうと思った。
その結果が今作になった。
幕開けから全力疾走したつもりだ。こんなに飛ばしてすぐに息切れしないか自分が一番不安なほどの展開だ。
これまでの作品の中で、もっともエンターテインメント性に富んでいると自負している。
ただただ身を委ねて楽しんでいただきたい。
大切なところなので、もう一度いいます。
ただただ身を委ねて楽しんでください。
読めばわかっていただけるはずです。
2023.10.25(水)