《陽虎の目は孔丘をとらえて、はなさない。
「宝をいだいていながら邦を迷わせたままにしておくのは、仁と謂うべきであろうか。もちろん、仁とはいえない。政治に参加したいのに、たびたびその機会を失うのは、知というべきであろうか。もちろん、知とはいえない。月日は逝き、歳はとどまらない」(略)
孔丘は衝撃をうけた。ただひとつ、
「仁」
ということばに、である。陽虎はどこでそのことばをみつけたのか》
続いて《仁の意味がわからない孔丘は、陽虎におくれをとったおもいで、くやしさがこみあげてきたが、あえて冷静に、
「いつかお仕えするでしょう」
と、答え、仲由の腕を軽くたたいて馬車をださせた》
とある。
「人として正しい在りかた」「人としての本分」(本書)を意味する「仁」。吉川幸次郎(『中国の知恵』)によれば、『論語』の「全四百九十二章のうち、五十八の章に百五度この字が現われる(略)この書物の最も重要なトピックは、やはり『仁』である」とされ、この見方は諸家も一致している。「仁というのは、孔子が発明した語であるらしい」と白川静は指摘しているし、孔子の「基本理念」(井波律子)、「最高の徳目」(金谷治)といった「仁」の位置づけは変わらない。ところが、本書における孔丘は、人もあろうに陽虎から、はじめて「仁」の言葉を聞き、その意味がわからなかったというのだ。孔丘はすでに四十代後半になっている。それまで「仁」を知らず、その後、専売特許のように「仁」を標榜することなど、ありうるだろうか。
一見、荒唐無稽に映るこの挿話は、読者の心に強く残るにちがいない。ここに本書のもうひとつの鍵がある。
「曰わく、其の宝を懐きて其の邦を迷わす、仁と謂うべきか。曰わく、不可なり」――二度繰り返される「曰わく」は、本書では陽虎の自問自答とされている。それは金谷治をはじめ、木村英一、宮崎市定等の解釈と同じだ。けれど、現代語訳には別解がある。たとえば井波律子訳(カッコ内表記は井波訳・原文のママ)。
2023.10.26(木)
文=平尾隆弘(評論家)