宮城谷氏は、蓄積してきた知見を総動員しつつ、孔丘の事跡を確定してゆく。いつ、どこで、何をしたか? それを明らかにすることと孔丘を知ることとは相同じ。一例をあげよう。本書における孔丘は、成周(周の都)に留学、老子の塾に入門し六年余にわたって教えを乞うている。『史記』に記された成周への留学は「道家が流行してからのちに、孔子と老子とを結びつけるために作り出した一場の作り話にすぎない」(貝塚茂樹)、「老子を持ちあげるためにあとから作られたことで、事実ではない」(金谷治)と断ずる説がある。しかし著者は孔丘にとって留学こそが不可欠な体験だったと考える。老子は老先生の意で後年の書『老子』とは無関係であり、この老子は元・周王室文庫の司書だった、と。留学先で四十歳を迎えた孔丘は、老子の教えによって「周文化がもっともすぐれている」と惑わず確信する。孔丘の周文化へのゆるぎない信頼は、こうしてその根拠を示される。それ以上にハッとさせられるのは、留学先で孔丘が《かつて得たことのないものを得たのである。/それは学友である》という指摘だ。『論語』冒頭「朋あり遠方より来たる また楽しからずや」の「朋」は学友を指している。孔丘に弟子はいても友人を持つ機会はなかったはず。いったいどこで学友を得たのか。それは老子に学んだ成周以外考えられない。かくして留学の叙述はリアルに生き生きと訴えかけてくる。
本書の比重は、老境以前の孔丘に置かれている。やがて孔子になる孔丘にぴったり寄り添うように。いきおい、仲由(子路)を除けばあまり知られていない最初期の弟子が多数登場する。閔損(子騫)、秦商(子丕)、顔無繇、漆雕啓(子開)……なかでも、特筆に値するのは漆雕啓の存在である。七章「儒冠と儒服」から現れ、最終三十六章まで常に顔を出す(最多登場)。漆雕啓の存在によって、孔丘も読者もどれほど救われていることか。あの愛すべき快男児、仲由(子路)――「われらはどこにいても、どんな境遇になっても、楽しむ、ということを先生から教えられた」と賛嘆を惜しまなかった仲由ですら、十四年におよぶ多難な亡命生活において、「なあ、子開よ、あんな先生でも、これからもわれらは守っていかねばならないのか」と不満を口にしている。漆雕啓は違う。「死人とかわりがない」ように見える孔丘に寄り添い、人間孔丘の深い悲しみを察している。漆雕啓は著者の分身であり、孔丘の孤独の最も良き理解者だといえよう。
2023.10.26(木)
文=平尾隆弘(評論家)