程昱ていいく張遼(ちょうりょう)鍾繇(しょうよう)賈逵(かき)曹真(そうしん)蔣済(しょうせい)鄧艾(とうがい)

 の七名。数は前著の『三国志名臣列伝 後漢篇』に等しい。程昱から賈逵までの四人は、魏を実質的に造りあげた曹操に見いだされた臣下たちである。宮城谷『三国志』は、曹操の文人としての魅力をみごとに描いているが、曹操はまた人間を見いだす力においても卓絶していたことを私たちは知るのである。

 目次の最初にあるのは、程昱(ていいく)である。前の名は程立(ていりつ)(えん)州に住む平民であったが、世間を見る眼は正確で公平、何となく周囲に人が集ってきた。後漢末期、各地に黄巾の乱が起り、それをきっかけにして有力者が角突きあいを始めた。宦官を一掃しようとした大将軍・何進(かしん)は宦官に暗殺され、その後に袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)鮑信(ほうしん)などが存在感を示し、なかでも力をもって中国中央を統治下に置きはじめたのが曹操である。

 程立の鋭い精神に気づいた曹操は、程立に小さくない役を与え、身近な存在として扱った。改名を勧め、程立の見た夢にちなんで、立の上に日を置いて程昱とした。その後の曹操と程昱の関係が興味深い。程昱は諫言をしつづけるのである。

 たとえば、曹操が袁紹に助力を請うために家族を人質に送ろうとしたとき、それを本気で諫めた。袁紹はいまは盛隆のなかにいるかに見えるが、それほどの人物ではない。苦境を自力で脱する者だけが偉業を成すのだといって、曹操に自立をうながす。

 いちばん大きな諫言は、曹操のもとに逃げてきた劉備についてである。曹操は劉備を厚くもてなしたが、程昱は「劉備を殺すべきです」と断言する。劉備は人から受けた恩を返す人間ではない、と見たのだ。

 兵を与えられた劉備は、程昱の予言通り、(きば)をむき、独立した。

 それを正確に見据えた程昱は、いわば信念の人で、他者と対立することが多かった。程昱は謀叛します、と曹操に告げる者があったが、曹操はそれにとりあわなかった、と作家は書いている。

2024.07.20(土)
文=湯川 豊(文芸評論家)