「そうおっしゃる方もいらっしゃいますが役というのは巡り合わせです。今がその時だったということなのでしょう。それにお三輪は父も祖父も時蔵襲名の舞台で勤めた役であることを思えば運命的なものも感じます」

 恋焦がれる求女の後をひたすら追いかけてお三輪が迷い込んでしまったのは三笠山にある蘇我入鹿の御殿。入鹿は天下を揺るがす大悪人です。そしてお三輪にとって恋敵である橘姫の兄でもあります。求女はある思惑があって橘姫の素性を探っていたのでした。全く場違いの身分の低い庶民の娘・お三輪を見つけた官女たちは、それが大切なお姫様にとって邪魔者であることを悟るとさんざんにいじめ始めます。

いじめの官女は“小川家立役オールスターズ”

 襲名ならではの、特筆すべきことはこの官女たちの配役です。中村歌六さん、中村又五郎さん、中村錦之助さん、中村獅童さん、中村歌昇さん、中村萬太郎さん、中村種之助さん、中村隼人さんという主役級の俳優さんが演じているのです。いずれも女方として確固たる地位を確立した名優・三世時蔵の血を引く“小川家”の方々、歌六さんの提案で実現したことだそうです。

「襲名でもないとなかなかないことなので本当にありがたいと感謝しています。全員が並ぶとやはり壮観ですし、お三輪は登場してからしばらくの間ずっと受けの芝居なのでとても心強いです。親戚が多くてよかったです(笑)。」

 おそらく二度と見られないであろう“小川家立役オールスターズ”による豪華配役に観客はざわめき、襲名のお祝いムードは盛り上がる一方。何よりの効果はこのかなり怖い官女たちによってお三輪の哀れさが際立っていることです。

 大きな見どころとなっているのは傷心のお三輪に起こるある変化。そのためにお三輪は命を落とし最終的には心が救われていくという展開となります。実は求女は政変の中枢を担う人物である藤原淡海で、お三輪は大化の改新を扱った壮大なスケールの時代背景を持つ物語のキーパーソンなのです。

「国家を揺るがす大事件が起こっている中で、ごく普通の娘が最終的に勧善懲悪を為す物語の一因となっていくのですから、数ある娘役の中でもお三輪は別格です。実際に舞台に立ってみてさまざまな意味でさらにそれを実感しました。あの御殿を背負ってお三輪としてそこに存在するにはリアルな感情だけでは勤まらないんです。役としての気持ちの持ちようを超えた空間支配力が求められるのですが、自分にはそれが足りていない。その自覚があるがゆえに焦ってしまい、その結果として芝居がどんどん写実になってしまいました。それが初日の大きな反省点です」

 ご自身に厳しい時蔵さんです。写実であることがなぜいけないのでしょうか。

「今のお客様にはリアルな感情に寄り添ったやり方のほうがわかりやすいかもしれません。けれど歌舞伎にはそれだけではない、長い時間をかけて綿々と積み上げられてきた表現方法でお客様の心を動かして来た歴史があります。型として残っている先人の知恵をないがしろにして自分のやりたいようにやっているだけでは先人に対しても、何よりそういう芝居を観て感動してくださっているお客様に対しても申し訳ないと思うんです」

 型を踏襲するには必要な技術を身につけなければなりません。

「ただ技術だけでもいけない。その型の心を感じ一度分解して組み立て直し、充実させていくことが重要です。それはとてつもない作業ですが地道に続けていくことで到達できる深い感動というものがあるのです。それにはまず基本をきちんと受け継がなければ。襲名という機会をいただき繋いでいくことの大切さを今、改めて実感しています」

 静かに語る時蔵さんの楽屋には、お祖父さまが四代目時蔵を襲名した際のお三輪を描いた掛け軸が、鏡台には写真が飾られていました。

2024.06.18(火)
文=清水まり
写真=深野未季(楽屋撮影)