秋穂は薬罐から徳利を持ち上げ、タオルで水滴を拭いた。
「お客さんが家に帰ったとき、あれこれアドバイスして上げたら、きっとお母さん、喜びますよ」
「お袋、亡くなったんだ。俺が高校生の時」
「ごめんなさいね、余計なこと言って」
秋穂は頭を下げたが、仁は首を振った。
「気にしないで。余計なこと言ったのは俺の方だから」
そして、感慨を込めて先を続けた。
「俺、女将さんの言ってること、良く分る。新入りはみんなの賄い作るのも役目でさ。入店して四年間、新人が入ってくるまでずっと、仕込みの残り物かき集めて作ってた。高いもんは使えないし、毎日目先も変えなきゃいけないし、ホント、大変だった。きっと世の中の奥さん達もみんな、同じ苦労してるんだろうね」
しかし仁の口調は愚痴っぽくはなく、むしろ楽しげだった。
「俺の賄い、結構評判良かったんだよ。残り物で工夫しながらメニュー考えるのも楽しかった」
「お客さん、幸せね」
「え?」
「だって料理が好きで、料理に向いてるもの。好きなことが自分に向いてるっていうのも運が良いし、おまけに好きなことを仕事に出来るんだから、超の付く幸せ者よ」
仁は不意打ちを食らったように戸惑いを露わにした。もしかしたら、今まで自分が運が良いなどと考えたことはなかったのかも知れない。仁は何かを振り払うように頭を振った。
「俺、才能ないんだ」
その表情は戸惑いから苦悶へと変っていた。
「何言い出すの? 料理の学校出て、イタリアンのお店で何年も働いてるんでしょ。賄いの評判良かったんでしょ。才能ないわけないじゃない」
「俺の親父は天才で、俺の周りにいる先輩はみんなすごい才能の持ち主ばっかなんだ。それなのに、店の跡継ぎは俺になる。親父の息子だから。先輩達が俺を見てどんな気がするか、痛いほど分るんだ。才能もないクセに、親の七光りで大事な店を譲ってもらえるなんて、不公平も良いところだ。こんなクソの役にも立たないバカ息子、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえば良いのに……って」
2024.06.12(水)