「親父はラブラブだった最初の奥さんと結婚して三年で死に別れて、すごいショックでトラウマになって、五十近くになるまで独身を通してた。そしたら三十歳年下のお袋と出会ってラブラブで結婚して、俺が生まれたわけ。だから息子と言うより孫だよね。そのお袋も結婚して十七年で亡くなって、残された家族は俺だけになった。愛情を注げる対象が俺しかいなくなったんだ。だから自分のすべてを、リストランテ・リッコを俺に譲りたい。俺に店を継ぐ力量が無いのは、理性では分ってるけど、感情が抑えられないんだよ」

 仁はそこまで一気に話すと、長い溜息をいた。

「親父は今年八十になった。もし俺が店を出て行ったら、ショックで倒れるかも知れない。そう思うと、俺も独立なんて言い出せなくて……」

 仁は猪口に残っていた酒を飲み干した。

「それは、大変ねえ」

 秋穂は仁と父親の気持ちをおもんぱかって、釣られて溜息を吐いた。

「普通、お父さんみたいなすごい料理人は、自分にも他人にも厳しくて『獅子は我が子をせんじんの谷に蹴落とす』式のスパルタに走ると思ってたけど、例外もあるのね」

「そうそう。千尋の谷の逆バージョン」

 仁は情けなさそうに顔をしかめた。

「悪いことに、親父、弟子達にはスパルタだったんだよ。ゲソパン(蹴り)入れたり鍋投げつけたりはしょっちゅうだったって。それが、息子だけには甘いんだから、みんな、頭にくるよね」

「そうねえ。私だったら頭にきて辞めちゃうかも」

「うん。実際、今までに三人辞めたよ。残ってる先輩は、うちで働いてた経歴が売りになるから、潮時が来るまで待ってるんだと思う。親父が引退した途端に、みんな辞める気かも知れない」

 秋穂は仁が気の毒になった。恵まれた環境に生まれたのに、それがかえって重荷になって本人を圧迫している。料理人としての喜びを奪おうとしている。

「お客さん、急に話は変るけど、どうして新小岩にいらしたの? お店もお住まいも都心でしょ?」

2024.06.12(水)