秋穂は子供がいないが、愛する人の幸せを望む心は、親でも子でも夫婦でも、あまり違わないのではないだろうか。

「お父さんと、じっくり話し合った方が良いわよ。あなたの気持ちが分れば、納得してくれると思うわ」

 仁は「そんなこと無理だよ」と言いたげに目を逸らした。

「どんなことがあっても、料理を嫌いにならないでね」

「え?」

「あなたは料理人に向いてる。才能がある。お父さんとか店とか先輩とか、料理以外の理由で料理を嫌いにならないでね。絶対にもったいないから。あなたの料理で幸せになるはずの人、みんなガッカリするから」

「ありがとう、女将さん」

 仁は素直に頷いた。

「明日、鰺のタルタル食べに来るよ」

「待ってますよ」

 仁は「お勘定して下さい」と言い、秋穂はカウンターに勘定書きを載せた。

「ご馳走さまでした」

 店を出て行く仁の背中に、秋穂はていねいにお辞儀をした。

 仁の父は勅使河原かんというイタリアンの名シェフで、三十二歳で独立してオープンした「リストランテ・リッコ」はミシュランガイド東京版発売以来、十三年連続で二つ星を維持している。過去には「料理の鉄人」に出場してみちろくさぶろうと好勝負を繰り広げたこともある。

 寛の下で修業して独立した料理人の中には、ミシュランの星を獲得した者が三人もいる。かつて料理人の世界はてい制度だったから、弟子達もパワハラの洗礼を受けた。しかし、自分の店を持つようになった彼らと寛の関係は悪くない。

 寛は今年、八十歳になった。さすがに体力の衰えはいなめない。数年前からスーシェフ(副料理長)に店を任せる日が多くなった。近頃は真剣に引退を考えている。だが、自分が引退したら心血を注いで築き上げた店〝リストランテ・リッコ〟がどうなるのかと思うと、あんたんたる気持ちになってしまう。

 出来ることなら一人息子の仁に譲りたい。今はまだ力量不足だが、将来はもっと腕を上げるはずだ。それまでスーシェフのおかざきが支えてくれたら、評判を落とすことなく代替わりが達成できるのだが、あの野心家でプライドの高い岡崎が未熟な仁の下で働いてくれるとは思えない。きっと店を辞めて独立するだろう。そうなったらリストランテ・リッコは……。

2024.06.12(水)