それでもたった一人の息子を差し置いて、赤の他人に店を譲りたくはない。ミシュラン二つ星店という強力な後ろだてを失ったら、仁はきっと注目されることもなく、平凡な料理人として一生を終わってしまうに違いない。

 それは出来ない。可愛い息子にそんな思いはさせられない。苦労して築き上げた地位を息子に受け継がせたいと思うのは、親として当たり前だ。何としても……。

「ただいま」

 仁の声でハッと我に返った。考え事をしている間に居眠りしていたようだ。寛はずり落ちそうになっていたしりを引き上げ、ソファに座り直した。

 ソファの横を通って、仁がキッチンへ歩いて行く。

「水を一杯くれ」

「はい」

 仁は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを出すと、グラス二つに注いでリビングへ持っていった。父はいつの頃からか、日没後はコーヒー・紅茶・日本茶など、カフェインのある飲料は摂らなくなった。夜、眠れないという。

 向かいのソファに腰を下ろすと、仁は報告した。

「今日、鈴木さんに会ってきた」

「元気だったか?」

 仁は暗い顔で首を振った。

「施設に入ってた。認知症だって。俺のことも分らなくなってた」

 寛はがくぜんとして頬をこわらせた。何か言おうと口を開きかけたが、言葉が出てこないようだった。

 盟友だったのだから無理もないと、仁は父の様子に痛ましさを感じていた。

「それで、リッコのことだけど、俺は継がないから」

「突然、何を言い出すんだ?」

「突然じゃないよ。前からずっと考えてたんだ。パパだって、俺がリッコのシェフになるのは無理だって、本当は分ってたんでしょ?」

「そんなことはない」

 寛は即座に否定したが、その声音は弱々しかった。

「俺がシェフになったら、ミシュランの星なんか全部なくなるよ」

「お前が継がないで、誰がリッコを継ぐんだ?」

「岡崎さんで良いじゃない。今だって立派にパパの代理を務めてる。岡崎さんならこの先、二つ星を守ってくれるよ」

2024.06.12(水)