しかし、なぜ、日本人ファイターで桜庭だけがいち早くMMAファイターとして仕上っていたのか? じつは桜庭のバックグラウンドはプロレスばかりではなかった。
学生時代のアマチュアレスリング/プロレス道場でカール・ゴッチ由来のサブミッション/Uインターでのムエタイのキック/出稽古に来たエンセン井上から学んだブラジリアン柔術/桜庭はこれらを組み合わせて自分のファイティングスタイルをほぼ独力で構築した。しかも、桜庭が「僕はアスリートであると同時にプロレスラーです」と語るように、格闘家として勝負に結果を出すだけでなく、プロレスラーの矜持で、対観客を意識して魅せる試合を毎回、披露することで世界でも他に類のない総合ファイターになったのである。
猪木の第二の故郷ブラジルから来航し、日本の格闘技界の黒船となったグレイシー柔術は、元を正せば日本を起源とする武道である。1951年、ブラジル遠征に訪れた柔道の鬼・木村政彦のキムラロック(後の桜庭の必勝技)で御大・エリオ・グレイシーが敗れた、その手痛い教訓がグレイシーたちの柔術をさらに進化させた。猪木一家がブラジルに移住する6年前のことである。20世紀半ばに日本発祥の柔術をブラジルで発展させた一族が、20世紀末にブラジル移民である猪木のプロレスの弟子たちをリングで葬り続けた。この因果がなければ、ここまで文脈のある大河ドラマは生まれなかったであろう。半世紀を経て因果は巡るのだ。
グレイシーはルールの押しつけや銭ゲバ交渉ぶりで日本では憎まれ役にもなっていたのだが、著者は、セルフディフェンスという哲学、地球の裏側で密かに発展を遂げた秘伝の武道の歴史を丁寧に紐解き、自らも柔術道場に入門し、いにしえの誇り高き剣豪一門を描くかのように深い敬意を払っている。
桜庭もホイスも、それぞれが一門の若大将として、実力で舞台の主役となったのだ。
当時、ボクは「SRS」という格闘技番組のレギュラー出演者だったおかげで、幸いにもPRIDEのほぼ全試合をリングサイドで生観戦することができた。ボクの史上最高のベストバウトも2000年の桜庭vs ホイス一択だ。トーナメントにも関わらず、この試合だけ特例で15分×無制限ラウンドルールが採用され、実際に我々もカブトならぬオシメを締めて試合を見守った。グレイシー・トレイン vs 桜庭マシーン軍団のファンタスティック過ぎる入場のプロレス的圧倒的高揚感から魂を鷲掴みにされ、計107分、いつ果てることのない射精中絶が続く官能的な緊張感、背後には歴史的格闘ロマンを秘めた美しき運命の一騎打ちは史上最高の一大スペクタクルであった。
2023.10.05(木)
文=水道橋博士(漫才師)