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待望の灯り
ひとしきり話が終わったあとで、誰かが、
「この灯台は、地元の要望で建てられました」
というようなことを言われた。
単なる郷土愛の一例証として触れただけなのかもしれないが、私には何となく心に残るものがあった。実際、家に帰ってから読んだ海上保安庁交通部編集のガイドブック『海を照らして150年』には、それを裏書きする事実も記されている。いわく、建設にあたっては地元が敷地を提供し、そこから海岸までの道路も整備したほか、三百人の作業員まで用意した、うんぬん。それほど人々はこの灯台を待ち望んだのだ。
前回、私は、そもそも灯台というのは押しつけられたものだと述べた。
幕末期、イギリスその他の先進国が、自国の船の通行の安全のため「つくれ」と強要したのである。
幕府はそれを約束した、または約束せざるを得なかった。幕府を倒して成立した明治政府もそれを受け継いだため、日本各地の海にはあたかも雨後の筍のごとく灯台が生えることになった。それから約三十年、たった三十年にしてもう地元の人々がそれを強要どころか自発的に誘致する、そんな時代が来たのである。この灯台の名は美保関灯台、島根半島の東のはしっこに立ち、初点灯は明治三十一年(一八九八)だった。
それだけ親しみが湧いたのか、ほかに事情があったのか。
直接的な理由を言うと、明治三十二年七月の勅令第三四二号である。
これをもって地元の境港は、国指定の開港場となった。
外国船舶をむかえることのできる国際港湾になったわけで、さだめし住民は気分が高揚しただろう。その高揚が、まずもって、誰の目にも恥ずかしくない灯台を建ててやろうという運動につながったことはまちがいないのだ。
だがそれはあくまでも直接的、短期的なきっかけにすぎない。もっと間接的、長期的な部分においては、彼らの心の奥底には怒りと焦りがあった。
ひとことで言うなら「われらは国に置き去りにされた」、そんな泥土のような感情。
なぜなら、これも前回述べたことだが、日本の灯台建設はおおよそのところ太平洋、東シナ海、瀬戸内海において先行し、日本海はあとまわしにされたからである。
2023.07.05(水)
文=門井慶喜
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年6月号