犬の寿命が短いことが、受け入れ難いと思っていた時期がある。そう思っても受け入れなければならないのが、死というものである。新しい犬に出会うたびに、おまえ、死ぬのだよな、と小声で語りかけたりした。幼いころから、暮らしの中に犬がいた私は、その死に、どれほど出会っただろうか。数えようとは思わないが、その度に襲われる胸の痛みは、生々しく思い返すことができる。
ある時、死ぬというのはただいなくなることだ、と教えるために犬たちは私のところへ来た、と思うようになった。
私はそれで、犬の死を受け入れてきた。そばにいてくれる間だけ、無垢なるものを心の一部で感じていることができた。いなくなった時、私は死というもののありようを、教えられ続けてきたのだろう。
はじめ多聞という名で現われる、本書における犬は、死を教えるためにいるわけではなかった。空腹で、満身創痍の状態で、人の前に現われる。人が、放っておくことができないような容子を持ち、助けられる。助けられるのは出会いの時だけで、すぐに助けた人間の癒しになっていく。その過程で、助けた人間は、これまでとは違う自分に気づく。人生というものが垣間見えて、終りを自覚したり、生き直そうと考えたり、絶望の中の光を見つけたりする。その時に、犬は消えてしまうのである。
次々に、様々な人生に多聞は関る。やがて多聞と記された首輪もなくなり、出会った人間がつけてくれた名で呼ばれるようになる。
犬の運命に、読者は引きずりこまれていく。犬に思い入れを抱く読者も多いだろう。大抵は満身創痍の出会いだから、傷の回復が気になる。回復し、元気に駆け回る犬を見て、胸を撫で下ろす。ほぼ完璧に、人間との生活の約束事を心得た犬に、驚嘆の思いを抱く。
このあたりが、この作者の巧みなところだが、実は一篇一篇に描かれているのは、さまざまな情況にある人間たちなのだ。犬が来てから去るまでの、わずかな期間の人生が描かれている。人生を一本の樹だとすると、描かれているのは、梢を鋭利な刃物で切った、その切り口である。その人間、その人間の、最も人間らしい鮮やかな切り口が、ひとつの人生全体を感じさせ、すぐれた短篇の持つ特性が示されているのだ。
2023.04.21(金)
文=北方 謙三(作家)