そして、『老人と犬』があった。死期を迎えた老人のところに、犬が現われる。再生ではない。滅びなのだ。それが諦念とともに静かに進行して、老人の私は身につまされた。死に方はいくらか劇的だが、死はすんなりと老人の心に入ってくる。そして犬は、老人の頬を舐めるのである。それはもう、犬の舌が、生きることの意味を表象していた、と私は思うしかなく、かなり遅れて、小説の感興がこみあげてきた。
この短篇集は、ひとりひとりの人生の側面を描きながら、常にそこに犬が介在しているという、二重の構造を持ち、描き出された人生のひとつひとつを、印象的で鮮やかなものにしている。
最後が、『少年と犬』である。
以前、私はいくらか不思議な体験をしたことがある。大学生のころ、雑種の犬を飼っていた。二年ほど兄弟のようだったが、私はある事情で家へ帰らなくなった。ふた月ほど経った時、用事で家に電話をした。三日前に、犬がいなくなったと知らされた。私が家へ帰ったのは、それから十日後だった。
深夜、駅から歩いて帰った。路上に、いやなものを見た。轢き潰された、犬の屍体であった。そして私の眼は、一点に釘付けになった。尻尾に、見紛いようがない特徴があったのだ。私は飛行機の尾翼と呼んでいたが、直角に近く曲がった尻尾である。それだけが潰されず、路面に立っていたのである。何度も轢かれたらしく、板そのものだった。私はそれをなんとか路面から剥がし、持ち帰って庭に埋めた。
帰らない私を二カ月待ち、我慢できなくなって捜しに出て道に迷い、帰るとわかって家の近くまで来て、轢かれた。ドジ踏んじまったよ。俺だってわかるように、尻尾だけ立てといたからよ。
そんなことが、あるはずはない。私にわかるのは、自分の犬だった、ということだけである。あとは偶然にすぎないだろう。
ほんとうに、偶然なのか。『少年と犬』を読みながら、私はそればかりを思い返し続けていた。
小説は、短篇連作として、ここで見事に結末を迎える。読者にとっては、五年かけて旅をし、六人の人生のある局面を身に帯びた、多聞が現われるのである。どういうことが起きるのか、およその見当はつこうというものだ。しかし私は、読みながら落ち着きを失っていった。
2023.04.21(金)
文=北方 謙三(作家)