日常から地続きのファンタジーへ

 生殖にセックスを要しない世界、時間遡行を叶える絵画……。大胆な奇想とひりつくようなリアリティを共存させる著者だが、新作は少し色合いが違う。人が空を飛べたら─。そんな無邪気な夢から生まれた長編小説だ。

「子供の頃からスーパーマンが大好きで、モノクロのTVシリーズからコンプリートしているほど。空を飛べる人間を主人公にしてとびきり面白い小説を、という長年の夢を実現しました」

 スーパーの惣菜部で働く太郎はある日、ベテランパートの久世がふわりと飛んで屋根の上の猫を救うのを目撃。翌日、彼女は姿を消してしまう。

「自力で空を飛ぶというのは、不老不死に並ぶ、人類永遠の夢。その叶わぬ夢を鳥という身近な動物がいとも簡単に実演してみせる。人間は古来、鳥を前にして飛べない自分の無力さを痛感し、不可能な望みを常に抱きながら進化してきた、どんくさい動物なんです。僕だって、背中に大きな翼が生えたらどんなに爽快だろうと思いますよ。ある作家からは、人類が飛ぶようになったら空も下界と同じになるだけだ、と指摘されましたけど。『白石さんはほんとに呑気だね』って(笑)。否定的な面は考えてもみなかった。そのくらい憧れの能力なんです」

 不倫相手の死に責任を感じて屋上から飛び降りた綾音は、空中で何者かにキャッチされ、無事路上に降り立つ。

 関東一円に展開するスーパーの社長・純成は、会長である叔父の変化に悩む。九死に一生を得たセスナ機事故以来、叔父は経営意欲を失い、秘密裡に誰かを探しているようなのだ。

 一見交わらなそうな登場人物たちの人生を、随所で現れる“飛ぶ人々”が結び合わせる。やがて、彼らの間には“松雪先生”の塾に通っていたという共通点が浮かび上がってくるが。

「いつも、新作を書く時は一つ自分なりの課題を設定します。今回は“作者でさえ混乱するほど人間関係の錯綜する小説にしよう”と。大勢の物語が絡み、事前に設計図なんて作りようもない小説ですが、一人だけ飛べない塾生については最初から考えていました。飛行能力なんてご褒美、何かと引き換えにしないと不公平だと思って」

 飛ぶ人、飛べない人がこぞって探す、松雪先生の正体とは。コロナ禍を経験した世界で彼らが選ぶ未来とは……。

「連載開始時は、2020年のオリンピックを舞台に予定していたので、ラストは大幅変更となりました。でも現代作家は、世の中で起きる事から目を逸らすわけにはいきません。これからも自分の作品では必ず“今”にふれていこうと心に決めています」


しらいしかずふみ 1958年福岡県生まれ。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、10年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『道』など。


(「オール讀物」3・4月号より)

オール讀物2023年3・4月号(第168回直木賞決定&発表)

定価 1,200円(税込)
文藝春秋
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2023.04.17(月)
文=「オール讀物」編集部