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海に開けた港としての敦賀を象徴する立石岬灯台

 ひるがえって現代ではどうだろう。無線通信やGPSの発達によって灯台は無用の長物と見なされがちだが、敵の攻撃などで通信衛星が破壊されたならGPSは使えなくなる。そんな時に備えて灯台を維持したり、灯台を用いた航海法の訓練をしておくことは、国防上きわめて重要ではないだろうか。

 また灯台のある場所は外つ国への窓であったという例は、この立石岬にも当てはまる。敦賀の気比神宮の境内にある角鹿神社の祭神は都怒我阿羅斯等という朝鮮半島からの渡来人で、大加羅国の王子だったと伝えられている。

 敦賀の地名は彼の名に由来していると言われているので、集団で渡来してきたのだろう。しかも興味深いことに、現在の敦賀市の市章は、

〈周囲の円形は敦賀港を現わして地勢を物語り、中央の角は「都奴賀阿羅斯等(ツヌガアラシト)」来朝に因んでその沿革を象徴しています。角の上部は敦賀港最初の文明施設としての灯台を具現し、港湾都市としての将来への発展を意味しています〉

 市のホームページにそう記されている。

 こうした市章を制定したのは、市民の方々のアイデンティティの中に渡来人の子孫だという意識が根強くあるからだろう。それが海に開けた港としての敦賀の発展を支えてきたのではないだろうか。

 そうした傾向は、敦賀鉄道資料館でもうかがうことができた。敦賀港は日本海海運の要港であり、大陸との交通の拠点でもあったことから、明治2年(1869)に京都-敦賀間の鉄道建設が決定された。明治15年(1882)には日本海側としては初となる線路が敦賀まで敷かれた。

 そして明治45年(1912)に欧亜国際連絡列車の運行が始まり、新橋(東京)-金ヶ崎(敦賀)の間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でロシアのウラジオストクへ渡り、シベリア鉄道でパリまで行く路線が確立された。つまり敦賀はパリに向かう始発駅として、ユーラシア大陸とつながっていたのである。

 この路線を利用して、迫害されたユダヤ人たちがリトアニアから敦賀に渡ってきたことはよく知られている。杉原千畝が発給した「命のビザ」をたずさえてのことで、その数は6000人にのぼったという。

 当時の資料は「人道の港 敦賀ムゼウム」に展示してあるが、敦賀の市民たちはユダヤ難民を温かく迎え、親身になって次の目的地に向かう手助けをしたので、難民の中には「敦賀は天国のようだ」と言う者もいた。

 そうした対応ができたのは敦賀の人々の中に、自分たちの先祖もかつては他国からこの国に渡ってきたという意識があったからではないかと思われる。

2023.02.12(日)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年1月号