この記事の連載

国防の最前線に立つ白亜の灯台

 急な坂道を登りきった所に白亜の灯台があった。1階は切り石を積み上げて作った円筒形で、底部の直径は6メートル。2階は細長い筒状で、屋根は銅板でふいてある。高さが8メートルしかないのは、岬の頂上に立っているので海面からの高さを確保できているからだ。

 北には日本海の大海原が広がっているので、晴れた日には青い空と海、森の緑に映えてさぞ美しいことだろう。灯台の作りも立地も、能登半島の禄剛埼灯台とよく似ている。こちらは明治14年、あちらはその2年後の建設で、ブラントンから学んだ日本人の弟子たちが手掛けたものだ。そのせいか双子のようによく似た姿をしている。

 禄剛埼では失われていた日時計が、立石岬には立派に残っていた。灯台では現地の夜明けと日没の時間によって点灯時間を決めるので、日時計を大切にしたのである。

 灯塔の入口には薄板の金具が立ててあるが、これは靴底にこびりついた雪をこそぎ落とすためのものだ。雪の深い地域ならではの設備である。

「この灯台は最初は石油灯と四等フレネルレンズを使っていました。しかし大正3年に光源をアセチレンガス灯に、昭和13年には白熱電球に変えました」

 海上保安本部の方が説明して下さった。

 昭和35年にはフレネルレンズもレンズ径30センチの灯器に変えたが、撤去したフレネルレンズは敦賀市立博物館に展示してある。こちらは手軽に見学することができるので、興味のある方はお立ち寄りいただきたい。

「この切り石は敦賀湾の対岸から切り出し、船で運んで山頂まで運び上げたものです。それが建設から140年以上たった今も変わらずに残っています。ここには灯台守の官舎があって、家族で赴任していました。人里離れたところだし、冬は雪に閉ざされ北風に吹きさらされるので、暮らしはさぞ厳しかったことでしょう。それでも日没から夜明けまで明りを灯し、海を行く船の安全を守りつづけました」

 その話をうかがって思い出したのは、映画『喜びも悲しみも幾歳月』の中で、主人公の同僚の妻が病気になり、何とか町の病院で治療を受けさせたいと雪原を馬車で行くシーンである。ところが妻の病は重く、町に着く前に夫の腕の中で息を引き取ったのだった。

「灯台は軍艦の航行にもきわめて重要でしたから、終戦間近にはアメリカ軍の攻撃を受けるようになりました。この灯台も昭和20年7月に艦載機による攻撃を受け、小型爆弾の投下や機銃掃射によって被害を受けています」

 日本の主要な灯台が、そうした被害を受け、殉職された方がいたことは前述の映画にも描かれていた。船舶の安全を守る灯台は国防の最前線に立っていたのだから、こうした攻撃にさらされることになったのだった。

2023.02.12(日)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年1月号