夢を叶えたけど消耗する日々を送っているテレビディレクター・優太(井之脇海)と、料理人だった夢を諦めたニート・耕助(金子大地)が、一緒に晩ご飯を食べることで本来の心を取り戻していく「晩餐ブルース」(テレビ東京、水曜深夜1時〜)。
SNSでは「こんな作品が観たかった」という意見があがり、じわじわと人気に。主人公同様に心をときほぐされている視聴者が増えている。でも、食で心を満たすような作品はこれまでにもたくさん作られているはず。本作のどこに独自性があり、何が人々を惹きつけているのだろうか。そこを深掘りして考えたい。
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ごはんを通して気持ちがほっとする作品
疲れた日常を忘れるおいしいごはんは、何よりのご褒美。忙しいと後回しになってしまいがちだが、食事は一番身近で手軽な、自分を大切にする方法(セルフケア)の一つでもある。それに栄養補給をして疲労回復をする意味でも、誰かとおしゃべりする時間を共有する意味でも、人とおいしいごはんを食べるメリットは大きい。
映画『かもめ食堂』のヒット以降、この手のほっこり作品は増えに増えた。それだけみんな普段から疲れていて、コンテンツにも癒やしを求めてしまっているということだろう。
主に深夜ドラマで「飯テロ」ドラマと言われるジャンルも流行った(「テロ」という言葉がカジュアルに使われる「飯テロ」という言葉には、抵抗感があるが)。以降、ドラマにおいて料理をどうおいしそうに撮るか、それを囲んだときにどんな会話が交わされるかは重要になってきている。本作も、まさにごはんを物語の軸に据えたドラマだ。
高校時代からの旧友でもある優太と耕助は、もう一人の友人・葵(草川拓弥)の離婚をきっかけに再会。その後、耕助が優太を晩ごはんに誘うことで二人は再び会うように。その後、“晩餐活動”(略して「晩活」)を通して、再び親交を深め、お互いに自分の固くなった心を癒やしていく。
おいしそうなごはんがでてきて、ほっこりできる。ごはんドラマの王道路線で制作されているため、深く考えなくとも気軽に視聴できるところも観心地の良さにつながっているのだろう。
ホモソーシャルなコミュニケーションを描かない
気になるのは、耕助が提唱する「晩活」という言葉。耕助がつくったものを2人で食べ、話をするだけならば、本来「うちで飯食べよう」と誘うだけですむ。でも、男性同士のコミュニケーションにおいて、それはなかなか通用しない。男性同士が二人で会うには、酒やサウナのような、趣味の領域に近い別の置き換えが必要なのだ。
同様に男性二人で「お茶しよう」は難しい。というのも、お茶の目的のほとんどは明らかに、近況や感情の共有だから。シス男(*)同士はそれをし合う文化に乏しい。労ってもらうことは女性に求め、男性同士ではお互いに弱さを見せ合わない。だからこそ、二人は活動名をつけ、一緒にご飯を食べる意味をぼかしたのでないか。サウナに行くことをわざわざ「サ活」というのも同様に。
そうした、旧来通りの男同士の窮屈さが「晩活」という言葉から垣間見える一方で、2人の関係性には新しさもある。本作の中で優太が耕助の前で涙を見せたのは、とてもいい描写だったと思う。耕助も優太の弱さを茶化さないし、受け止める。優太と耕助だけでなく、葵を含めた3人の関係性も本作の見どころ。1話での葵の離婚報告の際、耕助は葵の心労を察して「大丈夫?」と聞く。
これが旧来的な男同士の飲み会であれば正しい会話とされるのは「女紹介しようか?」となる(男性がホモソーシャルの価値観を内面化すると、女性を恋愛やセックスの対象か、ケアの提供者としか捉えられなくなる傾向がある)。でも、そうならないのがこの3人だ。
*シス男……シスジェンダー男性のこと。出生時に割り当てられた性とジェンダーアイデンティティが一致する男性の意味。
2025.02.19(水)
文=綿貫大介