──つき……。

「え?」

 匣はぴたりと声を止める。顔を近づけてみた。錆びた鍵の周りには、透明に照る結露のような塊があった。

「これは……」

 次の瞬間。

 ──う、う、うううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……!

 呻き声が大きくなった。照明が明滅し、耳障りな声が入口の硝子をびりびりと震わせた。思わず身構える。

 二階から類が駆け下りてきた。

「なにしたの?」

「類……この、なかの霊は……」

 ──嘘つき、嘘つき……。

 俺は側面からそっと指を差し入れてみた。

 声は密やかな嗚咽に変わる。

 ──…………。

「ほら、こっちの様子を窺ってるぞ」

 彼はあくまで正気なのではないかと、思った。

「ああ」と類はこともなげに小首をかしげる。

「やっぱりか……(きょう)さん、掛け金の周りを見てよ。これ接着剤だよ」

「……! 『どうやって綺麗にしよう』ってこれのことか……?」

「そうそう」

 無理に剥がしたり削ったりすると傷めてしまうだろう。

 そうこうしているうちに、呻き声は萎んでいく。

 何年、こうしていたのだろう。どうにも哀れで仕様がなくなってきた。

「なぁ……開けたら、成仏できるか?」

 俺は類と、なかのものに尋ねた。匣からは息をひそめる気配がした。

 後日、類があの男に連絡を取り事情を話すと、男は方々に話を聞きにいってくれたという。すると伝え聞いた話に、おかしなところが多いということがわかった。

「当時世話になった人たちのあいだでは『曽祖父は人格者だった』という声もあり……」

「気が違ったんじゃなく、気が違ったことにされたのかもしれませんね」

 類はそう言ってのけた。

「それから、この匣は曽祖父の死後に買われたものだった……という話も」

 ──取り憑いたのではなく、閉じ込められている。

 それが導き出された結論だった。

 蓋の開いた匣のなかには、もうなにも入っていない。

 青い天鵝絨(ビロード)張りの空間がぽっかり口を開けている。

 乾いた布で、その匣を磨く類の背を見て、俺は呟いた。

2024.10.18(金)