文学者としての鷗外については、研究が多くあります。そこで指摘されていることですが、彼は津和野藩の典医であった森家の名を挙げるために、何としても立身出世を成し遂げねばならなかった。そのために努力に努力を重ねてみごと軍医総監(中将待遇)に登りつめたけれども、彼の本意は文学者として自由に生きることにあった。

 医学と文学。この二つの道を全うするために、陸軍での勤務を終えて帰宅した森林太郎は、早めに就寝する。そして深夜に起き出して、鷗外としての文筆活動に従事した。体が頑健ではなかった(結核菌をもっていた)彼にはこの二重生活は辛く、結局は大正一一年(一九二二年)、満六十歳で刻苦勉励の生涯を閉じた。

 死にあたっては、親友の賀古鶴所(彼も本書に頻出します)に向けて「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言し、人生で獲得してきた一切の栄誉と称号を排して、墓石には「森林太郎墓」とのみ刻ませた。家のため、国のために生きてきた彼は、死によって漸く、自己の人生を自分だけのものにできた……。とりあえずはそうした理解が定まっているのではないかと思います。

 こうした解釈を支える貴重な史料の一つに、鷗外の最期の様子を知る女性(看護師さんか)の手記があります。そこには以下の如く書かれています。「意識が不明になって、御危篤に陥る一寸前の夜のことでした。枕元に侍していた私は、突然、博士の大きな声に驚かされました。『馬鹿らしい! 馬鹿らしい!』そのお声は全く突然で、そして大きく太く高く、それが臨終の床にあるお方の声とは思われないほど力のこもった、そして明晰なはっきりとしたお声でした(以下略)」。(『家庭雑誌』第8巻11号 伊藤久子「感激に満ちた二週日 文豪森鷗外先生の臨終に侍するの記」より)。

 鷗外にとって、「馬鹿らし」かったのは何か。定説に則すれば、それはあくせく歩んだ「昇進の道」だったでしょう。森家の束縛でしょう。『舞姫』に記された、エリスと暮らす穏やかな日々。それこそが太田豊太郎=鷗外の願いであり、でも周囲からの熱い期待を裏切ることができず、森林太郎はエリスを捨て、自らを欺き、ひたすらな出世の生涯を生きた。

2024.08.24(土)
文=本郷 和人(歴史学者)