そう思いながら、ため息をついた。
「もし。今、これを落としましたよ」
駆け寄って声をかければ、振り返った二対の目が見開かれた。
一瞬、粗末な身なりのあたしを見て、嫌な顔をされるかと思ったけれど、こちらの懸念に反して、その子は「あっ」と声を上げただけだった。
「やだ、私ったら」
あたしの手から櫛を受け取った際に触れた彼女の手は、白くやわらかで、まるで労働というものを知らなかった。体が近付いた瞬間にふわりと良い香りがして、水浴びをして来たはずの自分が、汗臭くないだろうかと急に不安になる。
「ありがとう。これは、とても大切なものなの」
そう言って、笑う顔には屈託がない。
「気を付けなさい。せっかく、お父様に買って頂いたものなのに」
「はぁい。ごめんなさい」
眉を寄せた母親の言葉に、首を竦めるようにして答える。「困った子だこと」と苦笑した母親は、その笑みを穏やかなものに変えてこちらを見た。
「本当にありがとうございます。失くしてしまったら、大変でした」
「いえ……。とても、素敵な櫛ですね」
「でしょう! すぐに使うのがなんだかもったいなくて、持ち歩いていたのだけれど、落としてしまったのでは意味がないわね」
その娘は唇に指先を当てて考えてから、それまで付けていたかんざしを抜き取り、代わって、先程落としてしまった飾り櫛を挿した。
「どうかしら。似合う?」
「ええ。とっても」
溌剌とした様子に、胸がつぶれるような思いがした。
ああ、本当に、違う世界の住人なんだなあ、と思う。
無理やり笑って言ったお世辞を、苦労知らずの少女は素直に受け入れた。そして鮮やかな笑顔を浮かべて、たった今抜き取ったばかりのかんざしの方を、あたしの手に握らせたのだった。
「櫛を拾ってくれたお礼よ。私よりも、あなたの明るい髪色の方が、きっとこれも似合うと思うわ」
じゃあね、と軽やかに手を振って、彼女は背を向けて去って行った。
降って湧いたような幸運がすぐには飲み込めず、あたしは手の中に残されたものを見下ろした。
2024.07.27(土)