ざわりと悪寒がした。

 すぐに逃げようとしたけれども、髪を背後から摑まれて、家の中に無理矢理引きずり込まれてしまった。悲鳴を上げ、必死に抵抗するあたしに向けて男が言ったのは、にわかには信じられない言葉だった。

「大人しくしろ。お前の父親は、もう金を受け取っているんだ」

「潔く諦めな」

「お前は、俺達に買われたんだよ」

 下卑た笑い声、憐れみを帯びた声、何も考えていないような、吞気な声。

 そのいずれも、興奮した荒い息の中では同じに聞こえた。

 あたしは呆然としながら、戸口から逃げるように去って行く、父親の丸まった背中を見た。

 ――それから自分が何を叫んだかは覚えていない。

 ただ、暴れた際に床へ落ちた花かんざしが、毛むくじゃらの足によって、無造作に踏み砕かれたのだけは、やけに鮮明に記憶に残っている。

 ぐしゃりと潰された、海棠の花。

 無残に飛び散る、銀の欠片。

 留め金から外れた珊瑚の玉が、少しだけ転がる。

 だが、転がって行く先を見届ける前に、黒い影が覆いかぶさって来たせいで、それ以上、何も見えなくなってしまった。

 転がって行った珊瑚の行方は、今も分からない。

第一章 垂氷郷(たるひごう)

雪哉(ゆきや)、いいかげんに起きなさい」

 肩のあたりを優しく叩かれて、雪哉は目を覚ました。

 真っ先に目に入ったのは、こちらを覗き込んでいる、目元に笑い皺の浮かんだ母の顔であった。

「……おはようございます」

 寝惚け眼を擦りつつ言えば「はい、おはよう」と、呆れたように返される。

「と言っても、本日二回目のおはようですけどね。もうすぐお昼の時間ですよ」

 言われて、雪哉はぽかんとした。

 周囲を見回せば、自分が横になっていたのは自室の寝床ではなく、火の気のない囲炉裏端である。開け放された扉から心地よい風が吹き込み、黒光りする板の間には、鮮やかな緑が映り込んでいる。

 普段騒がしい兄と弟の姿は見えず、鳥の声以外は、ひどく静かであった。

2024.07.27(土)