「兄上とチー坊は?」
「とっくに下に行っていますよ」
「下? 今日って、何かありましたっけ」
「何かって、梅を漬ける手伝いをする約束でしょう」
寝惚けているらしい息子に、母は小さく眉根を寄せた。
「まさかお前、どこか具合が悪いんじゃないでしょうね」
額に手を伸ばされて、雪哉は慌てて飛び起きる。
「体調は大丈夫です。すみません、ちょっとうっかりしていました」
「そう? では、一回顔を洗ってからお行きなさい」
「はい」
草履をつっかけて外に出て、湧き水を引いた水場へと向かう。竹筒の先から落ちる水で顔を洗ってから、岩の窪みに溜まった水面を覗き込んだ。
結い上げられた、やや茶色を帯びた頭髪は、寝癖も手伝って好き勝手な方向に跳ね回っている。寝過ぎたせいか顔はむくみ、普段から間違っても美少年とは言われない顔が、輪をかけて不細工になっていた。
癖っ毛を無理やりまとめてから、強めに顔を叩いて気合いを入れ直す。それから、母屋の裏口から顔を覗かせ、家人と話している母に声をかけた。
「母上、行ってきます」
「行ってらっしゃい。後で差し入れを持って行くから、みなさんによろしく伝えてね」
「はい」
羽織っていた着物を脱いで床に置き、両腕に軽く力を込める。そうすると、薄い靄のようなものが纏わりつき、次の瞬間には黒い衣――羽衣となっていた。何度か飛び跳ね、羽衣を体に馴染ませてから駆け足になると、屋敷の表へと向かう。
雪哉達の住む屋敷の表口は、大烏や飛車が降りたり飛び立ったり出来るよう、広い車場となっている。その先は空に向かって張り出した崖になっているのだが、ここは、郷長屋敷で生まれた子どもにとって、恰好の遊び場であった。
駆け足から徐々に速力を上げ、助走をつける。
人の姿のまま、勢い良く崖から飛び出した雪哉は、空中で体を一回転させ、すばやく体を変化させた。
全身の羽衣は黒い羽毛に変わり、骨格がぐにゃりと引き伸ばされる心地がする。
2024.07.27(土)