どちらも悪くない選択肢だが、塩谷さんは違う書き方を選んだ。「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」と言うために、ヒーターと洗濯物の位置関係や、そこから漂う香りにわざわざ言及している。そこに何がどんな風に存在していて、それをどう感じているかという、感性的な描写を差し挟む。
街の描写という観点からみても、言葉選びは明らかに感性に寄っている。「ダブリンは雨が多い」とか「洗濯物が乾きにくい」とだけ書いても構わないのに、乾かすためのヒーターがあるとか、洗濯物がどこにあるとか、その部屋に漂っている匂いだとか、自分の五感が捉えた情報が書き込まれている。
塩谷さんの文章には、匂いだけでなく音や動きがタイミングよく出てくる。フラットに書いているつもりでも、言葉の並べ方には書き手の身体が宿るものだ。言葉選びには、その人の生活の雰囲気や佇まいがどうしても滲んでくるし、塩谷さんはその扱いがとてもうまい。
第三に、〈読者が自分の連想に浸れるような、余白のある言葉選び〉。「五感の拡張こそがラグジュアリー」という文章まであるにもかかわらず、塩谷さんのエッセイでは感情や感覚の描写がずっと続くことはない。たまに出てくるくらいだ。
しかし、そのリズムのつくり方は理に適っている。似たような情報がずっと続くと慣れてしまうし、単調で退屈に感じる可能性が高い。たまにしか出てこない方が、かえって印象に残り、読者の体験を左右することができる。
文章を読むことで塩谷さんの「感じる」を追体験していると、その感覚や感情に関連する記憶の引き出しが開くことがある。ダブリンの雨模様と部屋干しの香りについて読んだとき、私もいくつか連想的に思い出した。京都のダブリンというアイリッシュパブで飲もうとすると曇りか雨になりがちだとか、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリナーズ』には幽霊と雨や何かで濡れる場面が多かったとか、そういう他愛ない記憶だが。
2024.07.22(月)
文=谷川 嘉浩(哲学者)