興味深いことに、「心ゆくまで」「共感」「感極まる」というように、感覚や感情に関わる言葉が頻繁に使われている。そもそも、人間は自分の意思で「感じる」を止めることはできない。本のページをめくるときも、誰かの話を聞くときも、ノートにメモするときも、五感は働いているし、心は何かを感じている。
「知る」ことは「感じる」ことと区別できない。ここから、〈学んでいるときにも、絶えず感性は働いていることを意識した方がいいのではないか〉という教訓を引き出すこともできる。これまでの議論で十分参考になりそうだが、話はここで終わらない。
「(感じながら)知る」段階の後には、もう一度「考える」段階がやってくる。塩谷さんは、書籍の解説を相手に脳内で議論をふっかけることで、考えを進めているそうだ。「バスで、飛行機で、ホテルのベッドの上で、そんなことばかりしてずっと一人遊びをしている」。
そこで生まれた脳内対話の記録を手がかりに、「曇りガラスの向こう側にあるぼんやりとした風景のようなもの」に輪郭を与え、言葉にしていく。ちゃんとした文章にしていくプロセスで、「自分がもやもやと何を考えていたのかも、そこでようやく理解できたりする」。
塩谷さんのエッセイは、素朴に考えや感じたことを綴っているように見えなくもない。しかし、感じたことや知ったことを実況するように伝えているわけではない。感じたこと、知ったことを何度も反芻し、自分の考えにも、誰かの意見にも何度もツッコミを入れながら文章にしている。
自分の書こうとしていることも、予め明確になっていないことが多い。だから、完成品に反映されないものも含む、数えきれない対話と編集を経て、彼女の文章はできあがっていると言える。この書き方は、とても効率が悪いし体力を使う。「いざ文章をちゃんと書くとなれば、とてもしんどい」と本人もこぼしている。
「感じる、考える、知る、考える、そして文章にしていく」。この体力と時間を蕩尽するような言葉の選び方は、一発当てて注目を集めることが価値を生む現代社会の「アテンションエコノミー」とは逆の方を向いている。言葉をつくることへの、そういうストイックさ。塩谷さんは、これだけ地道に泥臭く言葉を選んでいる。
2024.07.22(月)
文=谷川 嘉浩(哲学者)