せっかくなら、実際に作られた文章を一瞥しておきたい。表題作の「『ここじゃない世界に行きたかった』――アイルランド紀行」から、少し引用してみよう。
やっぱりダブリンは雨模様で、たまりにたまった洗濯物が乾かせない。小さなヒーターの上に大量の洗濯物をぶらさげながら、部屋干しの香りがする中で、私はたまった感情をひたすら文章にしていた。
この単純で短い文章から、言葉選びの特徴が三つ読み取れる。
第一に、〈単純な語彙で素朴なことを語っているようで、注意深く読めばかなり情報量がある言葉選び〉。「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」は、表現として地味にうまい。
この文字列だけで、「普段から習慣的に感情をためてるんだろうな」と反射的に想像してしまう。モヤモヤを我慢するのでもスカッと発散させるのでもなく、蓄えた感情を「文章にする」ところには、うっすらと陰を感じる。「感じる、考える、知る、考える、そして文章にしていく」という非効率で体力を使うプロセスに、わざわざ飛び込むのだから。
敏感な人は、「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」という言葉だけから、こういうニュアンスをなんとなく感じ取る。彼女は、それだけ読み甲斐のある言葉を選んでいる。しかし、この陰影が読み取れないからといってエッセイを楽しめないわけでもない。シンプルな言葉選びがミソだ。単純にも深くも読める文章の書き手は、そう多くない。
第二に、〈感性的な描写が差し挟まれる言葉選び〉。「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」のような、印象的なフレーズが思い浮かんだとき、書き手はそれを色々な仕方で料理することができる。
まず、読者の感情をもう一押しするような言葉遣いとセットにすること。そうすれば、もっと劇的に読者の感情を揺さぶり、自分の考えを印象づけることができる。それから、ただ「私はたまった感情をひたすら文章にしていた」とだけ書くこと。そうやって淡々と記せば、野暮ったくて説明的な文章にならずに済む。
2024.07.22(月)
文=谷川 嘉浩(哲学者)