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 放送中のNHK連続テレビ小説「あんぱん」は、国民的アニメキャラクター“アンパンマン”を生み出したやなせたかしさんと、妻の暢(のぶ)さんをモデルにした物語です。ドラマをきっかけに、改めてやなせさんの人生を知りたいと思った方も多いのではないでしょうか。

 やなせさんのもとで働き、晩年まで親交があったノンフィクション作家の梯久美子さんが多くの人にやなせさんの人生を知ってほしいと『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』を書き下ろしました。

 梯さんはあとがきで、「(やなせ)先生は困っている人がいれば誰にでもさりげなく手を差しのべる方でした」と話します。やなせさんのその優しい性格が引き起こした!?“人生最大の挫折”について、本書より抜粋してご紹介します。


「困ったときのやなせさん」

 嵩(たかし)は三越に勤めながら、新聞や雑誌に漫画を投稿していた。入選して掲載されることを繰り返すうちに、少しずつ仕事が来るようになった。

 出版界は隆盛のときを迎えていた。文化や娯楽をもとめる人々に応えて多くの大衆雑誌が生まれ、そこには必ず漫画のページが作られた。その後に生まれる長編漫画や劇画ではなく、四コマや八コマの風刺漫画やユーモア漫画である。戦前からの漫画家に戦後デビューの若手が加わって、漫画ブームが始まっていた。

 そんな中、小島功、関根義一、金子泰三などの若手が「独立漫画派」というグループを結成する。嵩もこれに参加した。

 マネジメント的な機能も担っていた独立漫画派は、銀座二丁目の雑居ビルに小さな事務所をかまえていた。さまざまな雑誌からの注文を分担してこなし、原稿料を分ける。嵩は三越の帰りに毎日のようにこの事務所に寄り、仕事を受けた。

 ここによく遊びに来ていたのが、雑誌『モダン日本』の編集長をしていた吉行淳之介である。戦前から戦中にかけて子役のスターだった中村メイコが社会勉強のために編集長の助手をしていて、ときどきいっしょにやってきた。

 漫画ブームのおかげで、嵩の仕事はどんどん増えた。やがて漫画家としての収入が三越の給料の三倍を超え、独立を考えるようになる。上京六年目の一九五三(昭和二十八)年のことで、嵩は三十四歳になっていた。

 このころ嵩と暢は、四谷の荒木町に住んでいた。戦後のインフレの中、夫婦共働きで懸命に貯金をし、四十二坪の借地に小さな家を建てたのだ。そのため住むところについては心配なかったが、定収入のない暮らしになるのはやはり不安だった。

 そんな嵩の背中を押したのは、このときも暢だった。

「会社、辞めなさいよ、なんとかなるわ。もし仕事がなければ、私が食べさせてあげる」

 そう言われて嵩は辞表を出したが、そこから先は甘くなかった。待っていたのは、人生最大の挫折である。

2025.08.23(土)
文=梯 久美子