この記事の連載
『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』#1
『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』#2
いつしか中途半端な存在に……

注文はたくさんあって生活には困らなかった。暢も仕事を辞めて家にいるようになった。だがこれという作品が描けず、ヒット作が出ない。年下の漫画家が売れていく中、嵩だけが無名のままだった。漫画界は世代交代が進み、大御所でもなく若手でもない嵩は中途半端な存在になっていた。
ほんとうは心細かったが、気取り屋のところがある嵩は、小さな黒板を買ってスケジュールを書き込み、忙しいふりをした。
『月刊高知』の経験を生かして、イラストや漫画ルポ、コラムや有名人のインタビュー記事なども手がけていたので、実際に締切りはたくさんあった。だがひとつひとつは小さな仕事で、雑誌の中で埋もれてしまっていた。
何でもできる器用さと、頼まれたら断れない性格で「困ったときのやなせさん」といわれ、大物漫画家の原稿が間に合わなかったときに、ページを埋める漫画を短時間で描いたりもした。「助かりました! 今度、もっといい仕事を回しますから」と編集者に言われて待っていても、実現したことは一度もなかった。
方向性はさだまらず、自分らしさとは何かわからなくなっていく。頼りになる相棒である暢も、こればかりはどうしようもできなかった。
この時期、嵩は注文に応じてその媒体に合わせた漫画を描く一方で、気に入ったキャラクターを主人公とする漫画を描き続けていた。三越時代に描きはじめた「メイ犬BON」という四コマ漫画のシリーズである。
嵩も暢も大の犬好きで、一軒家に住めるようになってからは三匹飼っていた。そのうちの一匹BONをモデルにした、セリフのない「パントマイムまんが」(嵩の造語)である。
BONは、ウィットに富んだいたずらをするおちゃめな犬だ。嵩はこの漫画をまとめて自費出版で本にした。そのまえがきにこうある。
夜の底に黒い犬がいて、こごえでほえる、ボン・ボン・セ・シ・ボン
さみしいひと、ボンはあなたの友人です。
あなたがゲッソリして、もう死にたいと思うとき、
あなたをどうしても微笑させるのが、生きがいです。
「さみしいひと」を「微笑させる」のは、この先、嵩の作家としての生涯にわたるテーマとなる。だがこのとき、「さみしいひと」は嵩自身だった。
2025.08.23(土)
文=梯 久美子