その途端、八十近いと思われる女性客が、両手で顔を覆った。左隣にいた顎髭を生やした客が、あわてて肩に手をやった。慰めるように軽く叩いている。
「ど、どうしたんですか?」
ますますわけが分らず、混乱して声が上ずった。
「米屋は三十年前になくなったんだよ」
一番年配の客が言った。頭がきれいにはげ上がっている。その頭が青ざめて見えた。
「嘘でしょ。昨日はあったんだから」
「嘘じゃないよ。隣のさくら整骨院、あそこが元の米屋だ」
「ウソッ!」
仁はおぼろげに自分の遭遇した事象の全容を悟り、背筋が寒くなった。
「そ、それじゃ、あの女将さんはゆうれいなんですか?」
「兄さん、まずは座って気を落ち着けて」
一番若い……それでも七十は過ぎている客が、ジャケットの裾を引っ張って、椅子を指さした。いつの間にか膝が震えていた。仁はくずおれる前に、椅子に腰を下ろした。
「お水、どうぞ」
女将さんが水の入ったグラスを差し出した。仁は礼を言って受け取り、一気に飲み干した。少し落ち着きが戻ってきた。
「あの、どういうことか、教えてもらえませんか?」
最初のショックから立ち直った女性客が口を開いた。
「米屋さんはね、元は中学校の教師だったご夫婦が始めた店なの。ここより古いから、五十年くらい前かしらね」
「旦那は米田正美、奥さんは秋穂。米田さんは立派な先生だったよ。それが学校でいじめ事件が起きて生徒が自殺してね。その責任を取って退職したんだ」
顎髭を生やした客が口を添えた。顎も頭も雪のように白い。
「釣りが趣味でね。それを活かして自宅を改造して店を始めた。だから最初は海鮮居酒屋だったんだよ」
仁は秋穂から聞いた話を思い出して頷いた。
「ところがそれから十年くらいして、米田さんは突然亡くなってしまった。心筋梗塞だったかな。それからは秋ちゃんが一人で店を切り盛りして、まあ、それなりに繁盛してたよ」
今度は店の主人が説明した。
2024.06.12(水)