「あの、何か?」

 突然声をかけられて驚いた。管理人室の受付窓から、キリッとした印象の初老の女性が顔をのぞかせている。チェーンのついた細い金縁の眼鏡をして、いぶかし気にこちらを見ている。私は、慌てる気持ちを抑えて何でもない風を装った。

「ああ、知り合いと待ち合わせなんです。少し遅れてるみたいで」

 そう言って、私はスマートフォンを軽く持ち上げてみせた。あたかも、今連絡をとっていた、という風に。

「……そうですか」

 管理人さんは受付窓から頭をひっこめた。サンボの言葉が頭によみがえる。自分でも何をしているのだろうと思った。こんなことをしても何の意味もないのかもしれない。

 そのとき、エントランスから中年の男性が入ってきた。郵便ポストを見ているから、マンションの住人らしい。不審に思われない程度に目をやる。会社員風で、スーツは少しくたびれて見える。薄い頭髪を撫でつけたような髪型で、疲れているのか足取りは重く、表情は冴えない。黒いビジネスバッグとビニールの袋をぶらさげて、廊下を右へ曲がり、一番近い部屋、一〇八号室の鍵を開けて入っていった。あの人が一〇八号室の住人か! 顔は覚えた。ぶらさげていた袋にはKマートと書いてあった。この近所にある小さなスーパーだ。住んでいる人を見られただけでも収穫だ、と少し興奮しながらマンションを出る。夜空に、ぼんやりと半月が浮かんでいた。

 翌日もよく晴れている。お昼休み、休憩室に行くと先に休憩に入っていた後輩の山吹奏が、椅子にだらしなく座ってサンドイッチを食べている。

「卯月さん、お先です」

「うん、お疲れ」

 私は買ってきたおにぎりとお茶をテーブルに置いて、山吹の隣に腰をおろす。ナースステーションの中では、看護師は基本的に何も食べたり飲んだりできない。衛生的な問題が一番大きいけれど、患者やご家族が見たら不快に思うかもしれないという理由もある。私語もなるべく控えなければならないし、泣いたり爆笑したりすることもできない。だから、ドア一つ隔てて、患者にもご家族にも顔を合わせずに済む休憩室というのは、看護師にとっては仕事中のオアシスみたいな場所だ。

2024.05.11(土)