私は、加藤の「自分の正しさをぶつけたい」という言葉を思い出す。そうだ。まずは自分が正しいと思うことをやる。やってみて、うまくいかなかったり失敗したりしたら、そのときはまた別の正しさを探せばいい。そう言い聞かせ、エントランスの階段を上った。
マンションは直方体の「ようかん型マンション」と呼ばれる作りだ。エントランスホールを過ぎると右手に外廊下が長く続いている。エントランスに一番近い部屋が、例の部屋だ。一〇八号室。表札は出ていない。静かで、室内から人の気配は感じない。家族住まい用のマンションに見えるが、一人暮らしなのだろうか。ほかの部屋の前には、子供用の自転車が置いてあったり、複数の傘が立てかけてあったりするけれど、一〇八号室の前には何もなかった。
廊下の奥の部屋から女性が出てきて歩いてくる。私は、スマートフォンを取り出していじるふりをした。じっと立ち尽くしていてもスマートフォンさえ見ていれば「スマホを見ている人」になれるから便利だ。女性は私のことはまったく気にしない様子でエントランスから出ていった。それ以外に人の動きはない。意を決してマンションの中まで入ってみたけれど、何の収穫もなかった。仕方なく私は来た道を引き返す。空を見上げると、意地が悪いほどによく晴れている。
ほかに予定はなかったから、家に帰るとついダラダラしてしまう。ソースであえるだけのパスタで遅い昼ごはんを済ませ、ハマっているドラマをチェックする。ラブコメで、主人公が恋人の浮気を見つけたところまで見ていた。ソファにだらしなくよりかかって続きを再生する。でも、「思い残し」のことが気になってあまり集中できなかった。
外が薄暗くなってきたので、部屋のカーテンを閉める。そこではたと思いつく。もしかしてこの時間なら、仕事に行っていた住人が帰ってくるかもしれない。
十九時を過ぎた頃、またマンションに来てみた。日が暮れるとぐっと気温が下がる。外はすっかり暗いが、マンションの中は明るい。エントランスホールにあるソファに座って、スマートフォンをいじるふりをしながら時間をつぶした。一時間も経っただろうか。
2024.05.11(土)