ありがとうございます、長束さま!
ぱっと顔を輝かせ、咄嗟に雪正は長束に目礼した。当主もふむと頷く。
「それもそうですな。して、雪哉。お主、宮中に行ってみたいとは思わんか」
「いえ。これっぽっちも」
いっそ、尋ねてくれた当主に失礼なくらいの即答であった。
これには当主も目を丸くした。
「何故だ。そちにその気さえあるならば、中央で高位高官になるのだって夢ではない」
立身出世だって出来るのだぞとのたまう当主に、雪哉は複雑そうな顔になった。
「それが、嫌です」
情けない表情ではあったが、雪哉の物言いはきっぱりしていた。
「僕は、大きくなったら兄上の仕事を手伝って、垂氷でのんびり暮らしたいのです。宮中なんて、絶対に行きたくありません」
身も蓋もない発言に、流石の当主も呆れたらしい。
「武家の子というに、情けないのう。お主には、野心というものはないのか」
「塵ほどもありませんね」
悪びれず、むしろ開き直っている風ですらあった。
本人が中央行きを嫌がってくれたらとは思ったものの、実際ここまで言われると、いたたまれなくなってくる雪正である。
自分勝手に落ち込んでいる父を無視し、雪哉はここ一番、真摯な様子を見せて訴えた。
「あのですね、僕は一生を、垂氷郷と、その郷長となる兄上のお手伝いのために使えれば十分です。むしろ、それが将来の夢なんです。どうか、その夢を切り捨てるような事はなさらないでください」
しかし雪哉の主張は、いまいち当主の心には響かなかったようである。
「随分と小さい夢もあったものだな。男なら、もっとこう、大望というものを持たんかい」
「いえ、あなた。雪哉の考えは、それはそれで、立派なものだとわたくしは思います」
当主の奥方はそう言って、優しく雪哉に微笑んだ。
「しかしながら、雪哉。その兄上と垂氷郷にとっても、あなたが中央に出て研鑽を積むのは、歓迎すべきことだと思いますよ」
梓はどう思いますかと意見を求められ、雪正の妻は嬉しそうに頷いた。
2024.04.15(月)