2024年4月6日からスタートのNHKアニメ『烏は主を選ばない』の原作となっている、阿部智里さんの大人気和風ファンタジー「八咫烏シリーズ」。累計200万部突破&第9回吉川英治文庫賞を受賞した本シリーズの第1巻『烏(からす)に単(ひとえ)は似合わない』の序章と第1章の全文を無料公開します。
八咫烏シリーズ 巻一
『烏に単は似合わない』
阿部智里
序章
この人がいい、と思ったのは、私がまだ五つか六つの時だった。
春たけなわの、風が少しだけ強い、気持ちの良い朝のことだった。
桜が咲いたぞと言って、悪友が私のもとを訪ねて来た。すみの奴がこうして来るのは、大抵が私を外に連れ出そうとしている時だ。案の定その日も、大人達から行ってはいけないと言われていた領境の崖へと連れて行かれた。
崖をはさんだ隣の領には、白くかすんで見えるくらいに桜が咲いているという。笑いながら追いかけっこをして、私達は森の中を走っていた。
だがそこで、すみは足を滑らせたのだった。
頭上の木々が途切れ、視界が開けたことに気を取られたのだろう。派手な音を立てて転げ落ちて行くすみに、瞬間、肝を冷やした。
着物を脱ぐのももどかしく鳥形へと姿を転じると、急いで崖下へと舞い降りた。しかし、再び人間の姿に戻りすみのもとに駆け寄ってみれば、元気に悪態をついていたので、私は思わず噴き出してしまった。
浅い谷間を、笑い声がこだまする。憎々しげに頭を押さえていたすみは、ふと私の肩越しに上を見て、口を閉ざした。すみの視線を追った私は、そこで世にも美しいものを見た。
この崖を越えてしまえば、もう隣の領である。その隣の領の崖上には、すみが言った通り、見事な桜が咲いている。
満開に咲き誇るその桜の下に、ひっそりと立つ人影があった。
金色に光る、しゃらりと流れる髪飾り。
やわらかそうな髪の毛は、一族の者には珍しい、薄い茶色の巻き毛であった。きょとんと私とすみを見下ろす瞳の色も、透き通るように淡い。長い袂は薄紅色。桜模様を散らしたそれは、その幼い娘に良く似合っていた。
2024.04.10(水)