「あせびさま。なぜ、桜花宮のお屋敷が、それぞれ春殿、夏殿、秋殿、冬殿、と呼ばれているか、ご存知ですか?」

 どこかいたずらっぽく言ったうこぎに、あせびは首を傾げた。

「さあ? でも、理由が無いなら、東殿、という名前でもいいはずね」

「その通りです。実際、はじめはそんな風に呼ばれていたようですが」

 うこぎはそこで一旦言葉を切り、ぱんぱん、と手を打ち鳴らした。

 それを受けた女房達が、一斉に立ち上がった。

「お屋敷は一つ一つ、歴代の姫君の趣向に従って、趣深く造り上げられてきました。結果、調度品から庭木――はては、お屋敷から見る風景まで、姫の思い通りになったのです」

「風景?」

「はい」

 言っているそばから、女房達は手早く御簾を巻き上げ、枢戸を片っ端から開けていった。

 月が出ているのだろう。

 扉が開かれたところから、春の夜気とともに青い光がなだれ込んできた。ぼんやりと、簀子の上に投げ出された影を眺めていたあせびは、視界の端を掠めた白い影に顔を上げた。

 花びらだった。

 言葉をなくして、あせびは高欄の方へと近寄った。外がとても明るい。これは、月が出ているせいだけじゃない。見渡して、何も言えなくなった。

 朧に浮かぶ月の光に照らし出されたのは、白く輝く、満開の桜の波だったのだ。

 目の届く限り、山の斜面を覆い尽くす桜の花。やわやわと吹き付ける風は、花の香りを濃厚に含んでいる。声が出ない。なんて美しいのだろう、と口にした途端、感動がすべて安っぽくなる気がした。どんな言葉を尽くそうと、それは同じことのように思えた。

「――東家の姫が、代々愛したもの。それは、桜でございました」

 おだやかな、うこぎの声が聞こえる。

「春の花を何よりも愛した姫が、何百年にもわたって、作り上げた景観でございます。春に最も美しくなる屋敷を、いつの間にか、誰もが春殿、と呼ぶようになっていたのです」

 美しいでしょう、と問われ、あせびは返事をしなかった。答えなんて分かりきっているからだ。無言で琴の前に座り、いとおしげにその表面を撫でる。爪を慣れた様子ではめてから、ゆったりとした動作で音を合わせ、静かにつま弾いた。

 ほろほろ、ほろほろ。

 優しく切ない琴の音は、淡い月の光に解けて、空へと上っていった。

 桜が咲いている。

 月が出ている。

 琴の音が、甘い水のように流れて。

 その光景は、その全てが一つで、一幅の絵のようだった。

 ああ……。

 ふと、あせびは気が付いた。

 だから、私はここにいるのね。

 双葉に、この琴は弾けない。だから、ここにいるのは、自分なのだ。これは偶然ではないと、あせびは悟った。

 ここが、私を呼んだのだ……。

 それまで、心のどこかで感じていたしこりが、ことりと落ちた気がした。

 ここにいていいのだと、桜の花が笑った。


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2024.04.10(水)