うこぎ達に見つからないように、そっと屋敷を出て、桜を見て回ったのだ。
東領の領境は、険しい崖となっていた。もともとは流れのきつい川だったのが、どんどん水量が少なくなって、今は小川ほどになってしまったために生まれた地形だった。
東領側の崖には、桜の木がいっぱいに生えていて、それはもう美しかった。
「私はもっとそれを見たくって、崖の所に近付いて行ったの。いきなり笑い声がしたのよ」
視線を転じれば、向かいの崖下に小さな影がふたつ見えた。どうやら子どもらしいが、岩にしがみついて、元気に何か言っているのが聞こえた。そしてその片われは、見慣れない色を小脇に抱えていたのだ。
「紫のお着物をお持ちだったの」
あせびがその意味に気付いたのは、恥ずかしながらついさっきだった。だが、早桃は即座に分かったようだった。
「それが、若宮殿下だったのですね」
「多分、間違いないと思うわ」
あれほどに綺麗な少年を見たのは、生まれて初めてだった。十年近く経った今でも、それは変わらない。下男の連れて来る息子達とは、明らかに質が異なっていた。
「あの後、うこぎがやって来て私を怒ったものだから、すぐにいなくなってしまったのだけれど」
どうにも、忘れられなかった。いつしか、桜が咲く度に、一種の習慣のように彼のことを思い出すようになっていた。あまりにも現実感のないその姿に、一時、自分の夢だったのでは、とさえ思ったこともあったのに。
「まさか、若宮さまだったなんて……」
自然と、吐息に甘いものが混じった。早桃はあせびのその様子をじっと見つめたのち、そっと呟いた。
「若宮殿下のことが、お好きなのですね」
途端に、カッと頬が熱くなったあせびである。はいともいいえとも答えられなかったが、早桃は察してくれたようだった。納得したような、または感心したような顔をして、次の瞬間には力強く頷いていた。
「分かりました。早桃は、あせびさまにご協力することにいたします」
2024.04.10(水)