「分かりました。あの、色々とお世話になりました。本当にどうもありがとう」

 男が開けたままの状態で押さえてくれる扉を抜ける時、その袖口から、ふわりと良い香りがした。背後で扉を閉められたのを感じて、あせびは姿勢を立て直し、周囲を見回す。暗い所から急に明るい所に出たせいか、一瞬目が眩む。先ほど通ってきた廊下ではないようだったが、少し歩くと、見覚えのある中庭が目に入った。はあっと、ため息をつく。一気に緊張がほぐれた。だが廊下を進むうちに、だんだんと怖くなってきた。藤波が宝物庫を出て行ってから、随分と時間が経ってしまっていた。春殿の君が行方不明になったとうこぎが騒ぎ立てていたらどうしよう、藤波が誤魔化してくれていればいいのだが……。

「あせびの君!」

 突然叫ばれた自分の名に、あせびは驚いて顔を上げた。そんなあせびに体当たりするように抱きついて来た人物は、自分の顔馴染みではない女房であった。

「ああ、良かった、さんざん探し回ったのですよ! 藤波さまにすぐ呼んで来るように言われたのに、どこにもいらっしゃらないのですもの」

「待って、あなた、宗家の女房なの?」

 抱きついたままの体勢でまくしたてる女房に、あせびは困惑しつつも声を上げた。大きな声に我に返ったのか、その女房はぱっとあせびから飛び退った。

「ああ、申し訳ございません! 私ったらついホッとして」

 そう言ったのは、まだ若い、あせびとさほど変わらない年頃の女房だった。健康そうな肌に、うっすらとそばかすが浮いている。派手なところのない若苗色の衣を着込んでいて、実直そうな娘だとあせびは思った。

 早桃と名乗った彼女は、藤波がすぐに来るように言っている、と伝えてきた。

「なんでも、若宮さまがお近くに来ているのだそうで、花見台の下をお通りになるのだと」

「若宮さまが?」

 驚いて目を丸くしたあせびに何度も頷き、早桃は頬を紅潮させた。

「さ、お急ぎになってください! うこぎさまも探しておられたのですから」

2024.04.10(水)