黒くこごったような薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がるようにそれはあった。
きらきらと、微細なほこりが明かりに反射して舞う中に鎮座していたのは、紛れも無く、すんなりとした輪郭を持つ、あせびにとっては見慣れた楽器――長琴であった。
吸い寄せられるようにそれに近づき、指で軽く触れれば、しっとりと体に良く馴染む。誰かが使おうと用意していたのだろうか。すでに弦は張ってある。試しにと軽く爪弾けば、調弦はされていないものの、驚くほど良い音がこぼれ落ちた。あせびの琴よりも音に潤いがあって、響きに深みが出る。
簡素で、余計な飾りがほとんどなされていない長琴だった。唯一彫られているのは、桜にかかる霞の文様くらいであろうか。でも、その分つくりはしっかりしていて、触った感じも素晴らしい。主の意図をよく汲み取ってくれそうな、素直な性質の楽器だった。
あせびは感嘆のため息をついた。
未だかつてお目にかかったことのないような、本当に見事な長琴である。
自分の置かれた状況すらも忘れて、あせびは思いがけずめぐり合った名器に興奮した。
ついつい、いつものように、気分のおもむくままに演奏する。それだけで、先程まで感じていたもやもやが、溶けて消えてしまうような気がした。なんて単純なのかしらと自分で思い、苦笑する。
その時、どこからか、穏やかな声が掛けられた。
「何を笑っている?」
びくりと身を竦めたのは、その声が明らかに、女性のものでは無かったからだ。
顔を上げて目に飛び込んで来たのは、やはり白い薄物を涼やかにまとった、一人の男性の姿だった。暗がりの中、柱にもたれかかるようにして、こちらを窺っているのが分かる。
あせびは混乱した。
顧みるまでもなく、ここは、男子禁制のはずだ。例外となるのは、この桜花宮の男主である、若宮さま。あるいは、宗家の者で、大紫の御前に面会を許された者のみであると、滝本は言っていたのである。ここにいるという時点で、相当に身分が高い御仁であるに違いない。どうしたらよいものか、困って黙りこくっているうちに、男はさっさとこちらに近付いて来てしまった。
2024.04.10(水)