息子も三歳になった。言葉と生きてゆく楽しみを知りはじめたようで、扇風機の強弱ボタンをいじりながら「そよかぜ、あらし、たいふう~」と風を形容したり、入道雲を見つけて「夏だねえ、ステゴサウルスみたいな雲」と俳句風の報告をしてきたりする。夜、眠る前には「起きたら、何する?」。ほんとだねえ。明日は、どんな出来事が待ち受けているんだろう。
季節はめぐる。つられて、私も歩き出す。一歩、一歩。俳句と一緒に。
二〇一九年九月 野分晴の朝日の中で 神野紗希
文庫版あとがき
「みえるひかりは、つよくてあついけど、かぜやくうきは、もうすずしいね」。日差しの照りつける八月の終わり、自転車を漕ぐ道すがら、息子が言う。その感慨はまさに、〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行〉ではないか。「昔、君の今の言葉とおんなじように、秋が来るのは、目でははっきりと分からないけれど、風の音にハッとするなあって、歌にした人がいるんだよ」と伝えると、「ぼくのほうがすごいよ! ふたつ、きづいたんだから。かぜも、くうきも!」と、少しムッとしている。名歌に張り合うとは、なかなかいい度胸だ。
刊行当時は三歳だった息子も、もうすぐ七歳。どこへ行くにもベビーカーだったのが、今では自分でランドセルを背負って小学校に通っている。私も、引っ越して少々身辺がすっきりしたほかは、変わらず、俳句を作ったり読んだりして暮らしている。
かつて〈消えてゆく二歳の記憶風光る〉と詠んだが、大人の記憶も薄れやすい。読み返して、書き残さねば忘れてしまっただろうあれこれが、今も言葉の中に息づいていることを懐かしく思う。同様に、今、当たり前の日常だとやり過ごしている出来事もみな、時が経って振り返れば、もう二度とは戻ってこない懐かしい瞬間なのだろう。
歳時記には、天の川や雪嶺といった悠大な季語と並列して、燕やたんぽぽ、林檎や檸檬、セーターや炬燵など、日常身辺をささやかに彩る季語があふれている。小さなものたちもまた、実は銀河や山河と同様に価値あるものであり、詩にするに足るものだ。些細に見える日常にも、命の光はひしめいている。俳句とはそうした発見の哲学を備えた、身ほとりを愛おしむ詩である。ならば、私のささやかな散文も、俳人としての生き方のひとつの実践というわけだ。
文庫化を企画・編集してくださった文藝春秋の荒俣勝利さん、単行本に引き続いて表紙の絵を描いてくださったカシワイさんに、この場を借りて厚くお礼申し上げたい。そして、いつもにぎやかにインスピレーションをもたらしてくれる、我が家の小さな俳人にも。
太陽がぎんいろに光る冬のはじめに
二〇二二年十二月 神野紗希
2023.03.03(金)
文=神野 紗希