『セイロン亭の謎』(平岩 弓枝)
『セイロン亭の謎』(平岩 弓枝)

 小説「セイロン亭の謎」は、平成五年(一九九三)に雑誌「小説中公」一月号から十一月号まで十回(九月号休載)にわたって連載されたものである。

 平岩弓枝の小説は、現代物、時代物に大別され、さらにその中には推理物、恋愛物、捕物帖(とりものちょう)、歴史物等、ひじょうに多岐にわたっているが、これまでに出版された単行本約三三〇冊のうち、時代物が約二〇〇冊、現代物が約一三〇冊という点からみると、彼女の仕事は現代物よりも時代物のほうにやや重点が置かれていることが分る。

 とくに最近は、「御宿(おんやど)かわせみ」や「はやぶさ新八御用帳」などが好評のせいもあって、時代物の仕事が増えているようだ。

 しかし、当人の話によると、時代物の仕事が続くと、なんだか無性に現代物が書きたくなるとのことで、この作品も前後の仕事ぶりから察するに、こうした書きたくてたまらなくなって書いたものではないかと思われる。

「セイロン亭の謎」を書くきっかけとなったのは、執筆を始める数年前、神戸の某レストランで、そこのご主人から或(あ)る異人館にまつわる不思議な話を聞いたことからだった。

 話は昭和十五、六年の戦争中のことだが、その異人館に日本人の夫とドイツ人の妻が住んでいて、貿易関係の仕事をかなり手広くやっていた。ところが、何かの理由でこの夫婦にスパイの容疑がかかり、憲兵が私服で屋敷の回りをうろつくようになった。

 この時代、軍の権力は絶大で、スパイ容疑がかけられたということだけで、逮捕されたり極刑に処せられたりという例は、有名なゾルゲ事件ではないが、けっして珍しいことではなかった。

 そのことにいち早く気付いたこの貿易商夫妻は、ひそかに日本を脱出し、満洲へと逃亡した。普通なら此処(ここ)で話は終るわけだが、この夫妻はそれから間もなく、どういうルートを辿(たど)ったのかは分らないが、官憲のきびしい監視の目をかいくぐり、自宅である西洋館に舞い戻り、終戦の時まで無事に地下倉庫の中で暮していたというのである。

2023.02.24(金)
文=伊東 昌輝(作家)