このように、いくつもの視点を複合的に用いることによって、物語を「線」ではなく「面」で押し進めていく。各登場人物の想いや知り得た事実、行動原理や犯行動機が、他者のそれと一致する場合もあれば喰い違う場合もある。その喰い違いすら、作品を楽しむためのスパイスとして用いる。また視点人物を都度明示することによって、読者の感情移入を容易にする効果もある。これら全てが「三人称多視点」を用いる旨味であり、その際に重要なのが「視点をブラさない技術」なのである。

 改めて考えてみたい。

 筆者はここまで、視点、視点、としつこく繰り返してきたが、師匠はこの「禿鷹シリーズ」において、主人公・禿富鷹秋の視点では書かない、という手法を選択された。周辺人物の目で見、手で触れ、言葉で語り、思いを馳せながら、禿富の本心には触れない、明かさないという企みだ。

 何もない闇に手持ちの燈火を向け、浮かび上がる影――禿富鷹秋を、あんたは直視できるかよ。おい。

 これはそういう作品であると、自称「末席の弟子」である筆者は、思うのであります。

2023.02.22(水)
文=誉田 哲也(作家)