この「俯瞰視点」というのが、意外と厄介なのだ。
代表的な例として挙げられるのは、新聞のような書き方だ。事実を客観的に書く。仮にそれが事件であれば、現場からは少し距離と時間を置いて描写する手法だ。語り部はあくまでも記者なのだから、当たり前といえば当たり前の話だ。
たとえば【当時、真利子は禿富に好意を持っていた。しかし、そのことを水間は知らなかった。】というような記述だ(これはあくまでも例文であり、本文からの引用でも、作中事実でもありません)。
しかし、小説でこの描写はあまりに味気ない。歴史小説のような、大局的な流れを書く作風なら話は別だが、一般小説の執筆手法としてはどうにも物足りない。
ではこれを「一人称一視点」で書いたらどうなるか。仮に真利子を「私」としてみよう。
【私は、禿富さんに好意を抱いておりました。ただそれを、水間さんには知られないようにしていました。知られていなかったと、思います。今でも。】
どうです。途端に小説っぽくなったでしょう。
ただし、この手法で書き進めていっても、水間が真利子の想いを知っていたか否かは描けない。仮に水間の台詞として「全然気づきませんでした」と入れてみたところで、それが水間の本心とは限らない、嘘をついている可能性も否定できないからだ。
これらの問題を解決し得るのが「三人称多視点」という手法だ。
まず真利子のパートで、誰にも知られたくない禿富への想いを明らかにする。それが終わったら、明確に「章」や「節」を分けて水間のパートをスタートさせ、真利子から禿富に抱きつく瞬間をドアの隙間から見てしまう――など、水間だからこそ知り得る事実や、心情、状況を描いていく。師はこの「パート分け」についても厳しく守るべし、としておられる。「章」や「節」で分けられないのなら、「*」などの記号を用いてもいいから、「ここから視点が変わりますよ」と読者に明示すべきである、と。
2023.02.22(水)
文=誉田 哲也(作家)