当たり前のように「視点」を意識し、使い分ける。それがプロの技であり、心得なのか――。
確かに、それを踏まえて読み返してみると、師の描写には視点の「ブレ」が全くない。それは「書く技術」というより、「あえて書かない技術」と言った方が正しいかもしれない。Aの視点パートで書くべきことは、Bの視点パートでは絶対に書かない。ひと言も、一文字も書かない。そういう覚悟の問題だからだ。
ここで、読者にも分かりやすいよう「視点」の分類について述べておこう。
まず着目すべきは、その文章が「一人称」で書かれているのか、「三人称」で書かれているのか、という点だ。一人称は「私」「僕」「吾輩」などであり、三人称は「水間」「真利子」「禿富」といった人名になることが多い。二人称も絶対にないわけではないが、極めて稀なのでここでは割愛する。
次に見るべきは「視点の数」だ。作品全体を通して、それが一つの視点だけで書ききってあれば「一視点」、複数の視点が使い分けられていれば「多視点」となる。
多くの私小説はその名の通り、「私」のような「自分視点」のみで書かれている。手法としては「一人称一視点」となる。
一方、この「禿鷹」シリーズは「三人称多視点」に分類される。厳密に言えば「一人称多視点」も「三人称一視点」も決して不可能ではないが、多くの作品は「一人称一視点」か「三人称多視点」のどちらかで書かれていると思っていい。
技術的な話をすれば、「一視点」で書いている限り、ブレが生じることはまずない。「私」が思ったこと、見たこと聞いたこと、過去に経験したことなどに限定して書いていけばいいので、さして難易度は高くない。
だが「多視点」で書き始めると、これが途端にブレやすくなる。
複数の登場人物の思考や記憶を縒り合わせて、一つの物語に仕上げていくのは言うほど容易いことではない。また、多視点で描写するうちに、つい「俯瞰した視点」が入り込んできてしまうことも少なくない。
2023.02.22(水)
文=誉田 哲也(作家)