そう、重要なのは「視点」だ。
作中人物の誰もが禿富を怖れ、憎み、それでいて離れ難く思っていながらも、肝心の禿富が何を考えているのか、何を狙っているのかは誰にも分からない。読者にもだ。なぜか。作中に禿富の「視点」が存在しないのだから当然だ。
ここで一つ、筆者から提案がある。
本稿では、この「視点」について解説していく、というのはいかがだろうか。それならネタバレなしで「師」の偉大さを語ることができ、なお本作を読む際の一助にもなると思うのだ。
禿富鷹秋というモンスターは、彼を取り巻く周辺人物の恐怖心によって照らし出され、瘴気を縒り合わせるかの如く姿を現わし、悪行の限りを尽くし、やがて陽炎のように消え去る。周辺人物の輪の中心にいながら、禿富はブラックホールとして、あるいは奈落の闇として作中に君臨する。
何故そのような表現が可能なのか。
ひと言で言えば、そこに「視点操作」の妙技があるから、ということになる。と同時に、その「視点操作」こそ、私が師匠から(勝手に)授かった最も重要な「執筆作法」である。
ここである一文をご紹介したいのだが、その引用元が他社から出版された別シリーズであることについては、多少心苦しく思っている。しかしその作品とは、他でもない師の代表作『百舌の叫ぶ夜』であるのだから、何卒ご容赦いただきたい。
それは、師が自ら書かれた「後記」の後半にある。
【各章の数字見出しの位置が、上下している点に、どうか留意していただきたい。これは必ずしも視点の変化を意味しない。時制の変化を示したつもりである。】
衝撃だった。
師はここで「視点の変化ではなく、時制の変化を示した」と明らかにしている。つまり、視点が変化する、あるいは視点を使い分けるというのは、私(逢坂師匠)の作品では当たり前、もはやお馴染みでしょうから、改めて記号で示すまでもありますまい、と仰っているのだ。
まだ小説家を目指しての文章修行中だった私は、この一文によって、プロの作家のなんたるかを思い知った。
2023.02.22(水)
文=誉田 哲也(作家)