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海没した新治神社の謎
「ところでね。安部さん」
話が一段落するのを待って、松野さんが郷土の資料を集めたファイルを持ってきて下さった。
『明治四十一年編纂「生地誌」』というタイトルがつけられている。生地の歴史や新治神社の来歴について記したものだ。
「この間新治神社が海中に没した話をしましたが、これにだいたいのことが記されています」
新治神社は現在黒部市生地716番地に鎮座しているが、これは水没後に移転したもので、昔は今の海岸線より900メートルほど沖にあり、まわりは豊かな港町として栄えていた。
ところが仁平4年(1154)8月10日に起こった海嘯(潮津波)によって神社も町も水没し、多くの人命や宝物、記録が失われたのである。
黒部川の河口に広がる生地地区は、河が押し流してくる堆積土によって出来ている。しかも地下には伏流水が網の目のように流れていて、今も清水の里として知られているが、こうした地形は砂のように崩れやすい弱点があって、巨大な潮津波によって海に突き出していた砂嘴が跡形もなく呑まれたものと思われる。
「ところが水没する以前の新治神社は、朝廷に何事かがあるたびに奉幣使を送られるほど格式の高い神社でした。大宝3年(703)には高向朝臣大足と天武天皇の皇子が、その2年後には甲辰人麻呂が勅使として奉幣しています」
それ以後も養老2年(718)に僧行基、天平20年(748)には国守大伴家持が参拝していると、松野さんは資料を示しながら力説された。
「問題はなぜ新治神社が朝廷にそれほど尊崇されたかということですが、私は最近ひとつの仮説に到りました。この地にはかつて中国の呉や越から人々が移り住み、国を開いたということです」
2023.01.10(火)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」2022年12月号、「オール讀物」2023年1月号