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対馬海流に乗って日本へ

 灯台が照らしているのは海運の要所であり海の難所だが、同時にそこは外つ国に向けた日本の窓でもあった。

 特にユーラシア大陸に向いている日本海側の港には、外国との交易や外国人の渡来伝承が数多くあることは、能登半島の回でも触れた通りである。

 かの地は朝鮮半島とのつながりが強いと言われているが、生地鼻灯台がある黒部市は古代中国の呉や越との関わりが深いと、黒部観光ボランティアの会の松野均さんは考えておられる。

「北陸一帯が越の国と呼ばれるのは、長江(揚子江)の下流域に栄えた越(紀元前600年頃~紀元前306年)から渡ってきた人々が開いた国だからだと長年考えていました。昔このあたりにあった湖も越之湖と呼ばれていましたし、新治神社を朝廷がひときわ大切にしたのも、越から渡ってきた人々の知識や技術を重視していたからだと思っていました。ところが先日、安部さんの小説を読んでいて、越ばかりではなく呉(紀元前585年頃~紀元前473年)の人々も渡ってきたのだと分りました」

 その小説とは、今も日経新聞朝刊に連載している『ふりさけ見れば』である。遣唐使の阿倍仲麻呂や吉備真備を主人公にしたこの小説の中で、私は唐の史書『翰苑』が邪馬台国について記した次の一節を引用した。

〈帯方(郡)より女王国に至るまで万二千余里あり。其の俗、男子は皆な黥面文身す。其の旧語(古い話)を聞くに、自ら太伯の後なりと謂う〉

 邪馬台国の者たちは、自分たちは呉王朝の祖と言われる太伯の子孫だと言っているという件である。

 呉は紀元前四七三年に越王勾践によって滅ぼされたが、その時王族や重臣たちは船に乗って海上に逃れた。そして黒潮に乗って九州にたどり着き、邪馬台国を築いたのだろう。

 私はそう考えていたが、そうした記述が松野さんにインスピレーションを与えたという。

「海洋民族であった呉の人々は九州にとどまらず、対馬海流に乗って北へ向かい、富山湾にもやって来たはずです。その名残りが呉羽山という地名ではないかと思います。今はクレハと読みますが、山の東は呉東、西は呉西と呼んでいます」

 松野さんは自説を証明しようと、南北を逆さにした東アジア地図を示した。その地図を見れば、長江の河口から北陸沖まで海の道で一直線につながっているのがよく分る。

 しかも黒潮は時速約6キロ、対馬海流は約2キロで流れているので、漂流しただけでも日本に流れつく。松野さんがそう考えておられるのは、長年水産会社を経営し、幾度も船に乗って日本海の地形や潮の流れを熟知しておられるからである。

2023.01.10(火)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」2022年12月号、「オール讀物」2023年1月号