嬉しいことがありました。

 ある日、SNSに朝作った味噌汁を上げたんですね。トマト、サツマイモ、カボチャ、合いびき肉と、半端に余っているものを「これでもか」と入れた、ごった煮味噌汁。肉とトマトからおいしいエキスが出るので、だし要らず。

 水からコトコト煮て、味噌を溶いていただけば……うーん、おいしい。「やっぱり味噌汁は自由だなあ、なんでも呑み込んでくれる」とつぶやいたんです。

 そしたら、「味噌汁は自由、そうか、そうですよね。こうでなきゃという固定観念にとらわれていました」的なリプライがついたんですよ。「気づけました」とも。誰かがそう感じ取ってくれたことが、とても嬉しかった。

 味噌汁といえば、ワカメに豆腐、油揚げにネギ、ナメコ、シジミ、アサリと定番の組み合わせなり、具があるもの。たしかにそれらは間違いなくおいしいし、見た感じもスッキリと粋であります。

 けれど家庭の味噌汁というのは、日々のありもの、残りものを消化消費していくための、便利な一品というのが本来じゃないか、というのが私の考え。

 「自炊はしたいけれど、食材が使い切れないのが難点」という声、本当に多く寄せられます。

 味噌汁ってたいしたもので、何を入れてたとしても大体はうまいこと味わいがまとまるんですよ。ただそれは、塩味や甘みがついた加工品ではなく、生(き)のままの食材に限り、のことですが。

 なので「余ってるもの、どんどん味噌汁に入れて消費しちゃいましょう」的なメッセージを定期的に発するのですが、料理に慣れないうちって、味噌汁にかぎらず「〇〇はかくあるもの」とイメージを強く、固く持ちすぎてしまう傾向がある。「余ってるものなんでも入れるって……そんなことして大丈夫かな」と心のガードが強くはたらき、トライしにくい。

 そう、自由にやってみるって何事もむずかしい。

2020.09.03(木)
文・撮影=白央篤司