楽曲の構築法の根本的な違い

【近田春夫絵画館④】
《前進あるのみ》
この先に何が待ち受けていようと、課せられた任務は果たさなければならぬ。それにしてもハイヒールを選んだことは失敗だったのか。裸足になるべきなのか? このまま履き続けるべきなのか? 今、まさに問われているのはそのことなのである。
【近田春夫絵画館④】
《前進あるのみ》
この先に何が待ち受けていようと、課せられた任務は果たさなければならぬ。それにしてもハイヒールを選んだことは失敗だったのか。裸足になるべきなのか? このまま履き続けるべきなのか? 今、まさに問われているのはそのことなのである。

 そんな頃に、アラン・メリルが、自分が書いたというオリジナルの楽曲を聴かせてくれた。これが、どれもこれもカッコいいんですよ。

我々日本人がロックとしてとらえている音楽の作り方と、彼のそれは、まったく違う。楽曲を構成する要素のプライオリティが異なっているんです。

 例えば日本人だったら、まずメロディーがあって、それに対してコードを付けていくみたいなやり方をするんですが、アランの場合は、まずひとつの太いリフを考える。それに対し、カウンターとなるひとつの旋律があって、そのふたつだけで音楽が成り立つ。

 いわゆるコード進行とか、そういう発想がまったく存在しない。もちろん、楽曲の中でコードは変わっていったりもするんですが、とにかく、自分がそれまで考えていた音楽の構築法とは違う。

 それまでの私には、ずっと抱いていた疑問がありました。GSのバンドがジャズ喫茶でコピーしていた洋物の曲と、彼らがレコードとしてリリースした日本製の曲との間には、何か歴然とした違いがある。

もちろん歌う言語の差異もあるわけですが、それだけには収まらない絶対的な違いがある。

 自分は、外国の人が作るような音楽を作りたいという一心でいたものですから、アラン・メリルの音作りとの出会いは衝撃でした。

 レコードとしてすでに完成した外国の音楽ではなく、ゼロの状態から外国人が作る音楽というものに生で接して、音楽へのアプローチの意味が根本的に違うんだという事実に愕然としました。

 ただ、アメリカ人やイギリス人すべてがそういうアプローチを行っているのか、アラン・メリルという人間に限ってのことだったのかは分からない。

 まあ、後になって、日本人と同じように、旋律と和声という関係性から普通に音楽を作っているロックミュージシャンも英語圏にはいっぱいいるんだということにだんだん気づいてきましたけど。

 さて、アランはアメリカ国籍だったので、ビザの更新のたびに本国に帰らなくちゃならない。バンドって、ずっと続けてないと気持ちが離れちゃうのよ。

 アランが3カ月ぐらい渡米して、帰って来たその日に、有楽町かどこかで一緒に『時計じかけのオレンジ』を観たことをよく覚えています。あの映画のどこがどういう風に面白いのか、彼はいろいろと説明してくれました。

2019.05.28(火)
構成=下井草 秀(文化デリック)
撮影=釜谷洋史
写真=文藝春秋