ロック、歌謡曲、ヒップホップ、テクノなど、変幻自在に幅広すぎる最先端のサウンドを世に送るかと思えば、勢い余って、タレント、文筆家、画家としても活躍。
音楽界きっての才人、近田春夫がその67年の半生を自ら語るトークイベントが、2018年6月16日(土)、青山「本の場所」にて開催された。その模様をスペシャル連載としてお届けします!
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日劇ウエスタンカーニバルに
憧れて
あれは1971年のこと。かのアミューズ帝国を築き上げた大里洋吉――当時は渡辺プロダクションの一介の若手マネージャーでした――の申し出により、20代になったばかりの私は、アラン・メリル、ロック・パイロット、ザ・ワイルドワンズという3組のキーボード演奏を行うことで、1組分のギャラを得られることになりました。
まあ、冷静に考えてみるとかなり理不尽な契約なんですが、応じるにはそれなりの理由があった。
私は、日劇ウエスタンカーニバルが好きだったんですよ。当時のグループサウンズの人気バンドが結集する一大フェスですね。
それまでも、いろいろうまくコネを見つけて楽屋の方からタダで入ったりするコツは体得していたんですけど、いざ自分自身がステージに出られるとなると、本当にうれしくなった。もう金は二の次、二つ返事でOKしました。
なかでも忘れられないのが、アラン・メリルのバックミュージシャンとしての活動。
アランは、「ニューヨークのため息」と称される高名な女性ジャズシンガー、ヘレン・メリルの長男です。
母親の再婚相手が米国の通信社のアジア総局長だったため、その仕事の関係で日本に住んでいた彼は、そのカッコいいルックスを買われ、ナベプロによってアイドル的に売り出されていました。
しかし、その戦略は頓挫。契約が切れるまでは好きにやっていいよということで、放置されていました。
もはや事務所側が用意したいわゆるGS的な持ち歌はやらなくてよくって、単純にアランが好きな洋物の曲を好き勝手に演奏していたんです。
ウエスタンカーニバルは1週間続きますし、PYGというバンドの前座として地方を巡ったりすることもあったので、彼と楽屋で話す機会も増え、そんな中で意気投合しました。
信じていただけないかもしれませんが、当時、私は楽屋ではすべて英語でコミュニケーションを取っていたんですよ。おかげさまで英会話も結構上手くなりました。今ではその片鱗すら残っていませんが……。
2019.05.28(火)
構成=下井草 秀(文化デリック)
撮影=釜谷洋史
写真=文藝春秋